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連載:近畿大学アメフト部OB中山一郎の「行動あるのみ」

ドイツ在住の夢追い人・中山イチローの「人生なんとかなってきた」#18 オカンに感謝

オープンの日の記念写真です(写真は本人提供)

店のオープンまで間近となったとき、母親は大阪府豊中市にある自分のお店を1カ月も閉めて、元同僚の(通称)いちこさんを引き連れてドイツへ手伝いに来てくれました。母親はドイツに着いてすぐ、工事で砂まみれになっているキッチンの床の雑巾がけを始めたり、店に必要な物を買いに行ったときでも、夫婦で何を買うか迷っている横でポンポンと決めたりしてくれました。このときから、母親のことを親としてではなく「40年近く飲食店を経営する大先輩」として見るようになりました。

母親のなしとげた大仕事

母親はドイツ滞在中に、ひとつ大きな仕事をやってのけました。以前書きましたように、僕らの夫婦間では「妻には一切、店を手伝わせない」という条件でドイツに移住してきたのです。その大前提を知らない母親は、妻にお好み焼きの作り方をみっちりと教え込みました。妻は母親に「私は店を手伝わない約束なんです……」とは言えかったみたいで、結局妻が寿司以外の料理を担当することになりました。これで従業員の確保、なんとかなりました。

さぁ、いよいよオープンです。といっても、営業許可がいつもらえるのかも分からなかったのでオープン日を決められず、宣伝もできないまま、ひっそりオープンしました。

店は元刑務所のホテルの中。奥まったところにある上、店の前の廊下はホテルがカーペットの注文を間違えたとやらで刑務所時代のまま。まるでお化け屋敷みたいな店に誰も来るはずないと思ってたら、ポツリポツリとお客さんが来るじゃないですか! あまりに不思議なので、お客さんにどうやってこの店を知ったのか尋ねると、ほとんどのお客さんが口をそろえて「NISHINO(西野)」と言うのです。

カイザースラウテルンで唯一の日本人ファミリーである西野さんという方が、知り合いのドイツ人に僕らの店がオープンしたことを広めてくれてたんです。当時、西野さんとは街でバッタリお会いした程度なのに、こんなにも店のことを気にかけてくれていたのです。

店をオープンしてからしばらくの間、お客さん全員にどうやってこの店を知ったのかと質問したのですが、答えが少しづつ「NISHINO」から「mündliche Werbung(口コミ)で!」と変わっていき、宣伝しなくても、お客さんが増えていきました。西野さんのおかげで、なんとかなりました。

母親は「宣伝もせんとこれだけのお客さんが来るんやったら、この店なんとかなるような気がするわ!」という言葉を残して、大阪に帰りました。

オープンから3年後の母親との別れ

母親が帰ってからは僕と妻のふたりで店を切り盛りしました。経営者として未熟すぎるふたりなので、不安でいっぱいの毎日でしたが、母親からもらったアドバイスをいつも頭に置きながら店に立っていました。閉店後の妻とのミーティングでも「オカンならどうするやろ?」と、母親の話題が出ない日はないぐらいのインパクトを残してくれたのですが、オープンしてから約3年後の2015年7月20日に亡くなってしまいました。

母親といちこさんと一緒に迎えられた日本食レストラン「あやめ」のオープンは、僕にとって一生忘れられない出来事となりました。

近畿大学アメフト部OB中山一郎の「行動あるのみ」

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