陸上・駅伝

連載:M高史の陸上まるかじり

元中央大陸上部主務・木村泰人さんが描くマラソンの未来予想図

中大時代は主務としてチームを支え、ご自身も走られてきた木村泰人さん(写真はすべて本人提供)
全日本大学駅伝、裏方のみなさんに注目して振り返ってみました

学生時代に私、M高史と同じく陸上部(駅伝部)のマネージャーだった方の人生にスポットライトを当てるシリーズの第9弾です。中央大学で主務を経験し、その後も陸上・ランニングに携わり、現在は株式会社アールビーズで新たな目標に向かって輝いている木村泰人(やすと)さんに取材してきました!

中央大の陸上部といえば、駅伝の名門。箱根駅伝では今年の95回大会までで、最多優勝回数14、最多出場回数92を誇ります。

卓球でインターハイに出場した長距離ランナー

鳥取県出身の木村さんは小学5年生のときに卓球を始めました。中学校では卓球と陸上の両方に取り組み、2競技とも県大会で優勝したという経歴の持ち主です。

中学時代のエピソードを教えてくださいました。「中3の市駅伝のことです。前を追って超オーバーペースで走った結果、4kmを12分15秒だったのですが、レース後に全身けいれんで運ばれました。県大会では抑えて走ったら、区間賞と10秒差。ちなみに区間賞は森下広一でした。抑えてなかったら、間違いなく勝ってたと思ってます(笑)」。バルセロナ五輪の男子マラソンで銀メダルを獲得された森下さんとは同学年だったそうです。

高校は鳥取西に進学。ここでも卓球と陸上の二刀流です! 陸上では1年生にして中国地区の駅伝でエース区間の1区を任され、頭角を現します。「高2、高3と卓球でインターハイに出ました。トラックの5000mはほとんど走ったことがなく、自己記録は真夏に猛暑の中で走ったときの16分40秒でした。秋になると駅伝では5kmを14分40秒で走ったこともあって、ほかの高校の先生がびっくりしてましたね(笑)」。大学では陸上をやろうと中央大学に指定校推薦で進学します。

2年生でプレイングマネージャーの道へ

中央大への入学が決まると、同級生たちが全国大会で活躍した選手たちばかりだということに気がつきます。「練習しなきゃと意気込み、入学前に一人で走り込んでました」と木村さん。練習過多により、左のハムストリングスの肉離れを発症した状態で入学します。「ガツンと痛めてしまったわけではなく、ジワジワくる感じで。ずっと痛かったですね」。1年生のときは思いっきり走ることができず、ジョグばかり。病院へ行っても治療法がはっきり分からないという結果に、もどかしい日々が続きます。「結局、手術しました。当時は前例のなかった手術で、有名な医者も立ち会ったのを覚えてます」

マネージャーをしていた大学4年次の中大記録会に出場する木村さん

2年生の夏から練習を再開。5000mを15分30秒くらいで走れるようにはなりましたが、当時の中央大では2年生の秋~冬に学年から1人、マネージャーを出さないといけないルールがありました。話し合いの末、木村さんが競技を続けながらマネージャーをやることに。「3年生になると、チームの練習内容も考えるようになりました。駅伝で一人でも走れる力をつけるために、時間差でスタートする練習もやってましたね」

出雲駅伝誕生エピソード

4年生のときに「平成記念 出雲くにびき大学招待クロスカントリーリレーフェスティバル」が開催されます。現在の出雲駅伝です。次の走者にタッチをするという斬新なスタイル! 翌年から襷(たすき)リレーに変更されます。当時は「出雲で大会やるらしいよ」というくらいの認識だったそうで、そこまで調整せずに迎え、5位だったそうです。

ちなみに第1回は日大が優勝。「日大は2日前に出雲入りして、コースの下見もしてました。それを周りの大学が聞いて驚くような時代でした」と、裏話も教えてくれました。

定期試験優先だった全日本大学駅伝

全日本大学駅伝の思い出も話してくれました。「3年生のときに全日本が1月開催から11月開催に変更になりました。中大は1月だと試験があって出られなかったんです。11月開催になったから出場できました(笑)」

現在は出雲駅伝、全日本大学駅伝、箱根駅伝が「学生三大駅伝」と呼ばれ、それぞれ高い注目を浴びています。出雲駅伝が名称も違っていて襷はなし、全日本は試験優先と、いまでは想像がつかない話ですよね(笑)。

大学4年生の箱根駅伝では総合3位。悔しい表情を浮かべながら同級生と記念撮影

そしてお正月の箱根駅伝では3年生と4年生のときにジープに乗りました。現在は運営管理車が選手を追走し、監督が声をかけますが、当時はジープでした。4年生の箱根駅伝では総合3位。「いいメンバーがそろってたので、悔しかったですね。本番へのピーキングの難しさを痛感しました」と、当時を懐かしむように話してくれました。

中距離からマラソンまで走れる主務

駅伝のほかにも学生時代のエピソードをうかがいました。単位もほとんど取り終わった大学4年生のころ。「主務だったので、1日中グラウンドにいました」と木村さん。授業の時間帯に合わせて選手たちは練習、木村さんはタイム計測などのサポートをします。ずっとグラウンドにいるので、練習の合間に短距離ブロックと一緒に動き作りをしたり、強かった1500mの選手を引っ張ったりしているうちに、スピードもスタミナも培われたそうです。

卒業記念に走った日本海マラソンで優勝!

大学4年生のときには日本海マラソン(現在の鳥取マラソン)でフルマラソンを走り、優勝。
卒業後はミキハウスでコーチとなりますが、大学時代に短距離ブロックに交じって培ったスピードを生かし、800mで東日本実業団4位、1500mでも3分51秒5をマークします。

1993年の東日本実業団選手権800mでは4位入賞)

忘れられないあの日の事故

当時は瀬古利彦さんが監督を務めていたエスビー食品の合宿に参加したり、練習を一緒にすることも多く、練習メニューやノウハウなどを学ばせてもらったそうです。ただ、木村さんにとっては忘れられない事故が起きました。

大学卒業前にエスビー食品の合宿に参加し、瀬古利彦さんの話を聞く木村さん(後列左)

「1990年、エスビー食品の常呂町(北海道)合宿で起きた死亡事故です。エスビーの選手を乗せて運転するのはエスビーのマネージャーか私だったのですが、あの時だけは別の方が運転してました。見送って数分後に3人の選手とトレーナーが亡くなり、大きな衝撃を受けました。トラウマにもなりましたが、彼らの分まで陸上界に貢献したいと強く思いました」

指導者の道へ進んだあと、市民ランナーを支えた

木村さんは学生時代の教育実習で指導の面白さに気づいたそうです。1993年から97年までは母校・中央大の女子陸上競技部コーチを務められ、93年には全日本大学女子駅伝で優勝。山内美根子さんがハーフマラソンで、斎藤雅子さんが1500m、3000m、ハーフマラソンで、松本こずえさんがハーフマラソンとマラソンで当時の学生記録を更新! 94年に斎藤雅子さんが樹立した3000m8分58秒34の日本学生記録は、現在も残っています。

中央大学女子陸上部コーチ時代に選手と一緒に走りながら指導

その後、フィットネス業界、飲食業界を経て、1999年からはラフィネグループで勤務。2010年には皇居付近にランニング用のロッカーシャワー施設「ラフィネランニングスタイル」を立ち上げ、市民ランナーの方々へのレッスンやイベントも開催してこられました。

ランニングイベントでは数多くの市民ランナーの方にも指導してきました

2015年には陸上部の監督に就任し、ラフィネグループは東日本実業団駅伝、プリンセス駅伝にも出場するようになりました。

壮大な目標「カレッジマラソン」の開催

今年から雑誌ランナーズやRUNNETでもおなじみの株式会社アールビーズに転職。スポーツメディア本部に勤務されています。今年11月28日に発表された「日本全国DOスポーツ活性化を目指すarbeeeプロジェクト」にも携わっています。

「走ることはもちろん、ラン以外のスポーツ実施率も上げていきたいですね。高齢化社会に向けてスポーツと健康が大事になってきます。ランニング人口の増加にも貢献していきたいですね!」

ほかにマラソン大会のゲストランナー手配やサポート、イベント運営サポート、海外レースとの提携、ランニングに関わる仕事も幅広く手がけています。

富士裾野高原マラソンにてMCを務め、大会を盛り上げる木村さん

さらに壮大な目標も教えてくれました。「カレッジマラソンを開催したいです。大学日本一を決める大会です。大学生のマラソン選手を育成できる環境作りですね。国際レースの先頭集団でいきなり2時間6分のマラソンに挑むのではなく、選手のレベルによって、まずは2時間15分、12分といったペース設定のレースで段階を踏むというのも大切なのでは、と思ってます」

一般学生にも参加してほしいそうです。「高校まではスポーツテストや学校のマラソン大会で走るけど、大学生になって部活に入っていないと走る機会もなくなってしまいます。健康志向から学生チャンピオンまで、750大学をターゲットにした1万人規模のカレッジマラソンを実現したいです!」

新しい扉を開くため、今日も木村泰人さんのチャレンジは続きます。

箱根駅伝の「チームエントリー」「区間エントリー」「当日変更」の裏側、教えます

M高史の陸上まるかじり

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