「何度も逃げそうになった」亜細亜大での4年間 千葉ロッテマリーンズ藤岡裕大1
輝かしい舞台で躍動するプロアスリートの中には、大学での4years.で花開いた人たちがいます。そんな経験を持つ現役プロや、元プロの方々が大学時代を中心に振り返る連載「プロが語る4years.」。第8弾は東都大学野球リーグ1部の亜細亜大で活躍してベストナインにも選ばれ、いま千葉ロッテマリーンズでプレーする藤岡裕大(26)です。取材・執筆は4years.の野球応援団長である笠川真一朗さんが担当します。3回の連載の1回目は、投手だった高校時代と大学での努力についてです。
「これはプロやな」と思わされた肩の強さ
僕は1月に埼玉西武ライオンズ・源田壮亮選手の自主トレに参加させてもらいました。そのときに一緒になった千葉ロッテマリーンズ・藤岡裕大内野手に、改めて取材しました。
藤岡は亜細亜大学硬式野球部の出身。僕と同じ26歳で、同じ東都にいました。僕の立正大は2部。藤岡の亜細亜大は1部だったので、公式戦で戦うことはありませんでした。でも練習試合で対戦したり、1部の試合を見に行ったときにプレーを見て抱いた藤岡への印象は「これはプロに行くんやろうな」でした。
走攻守に渡って大きな魅力を感じる素晴らしい選手だという印象でした。何より肩がものすごく強かったです。それはもう、見たことのないぐらいの強さだと思いました。そう思った人は僕だけじゃないはずです。同じリーグの選手の誰しもが認める素晴らしいプレーヤーでした。
そしてレベルの高い投手を擁する東都1部で申し分のない成績を残しました。1年生の春からリーグ戦に三塁手としてスタメンで出場し続けて新人賞とベストナインを受賞。4年間でベストナインを3度受け、3年生の秋には首位打者のタイトルも獲得。在学中に6度のリーグ優勝に輝き、なんと戦後初のリーグ5連覇も経験しています。明治神宮大会では2度の優勝を飾り、全日本大学選手権では2度の準優勝を経験しました。大学野球の日本代表にも2度選ばれました。
さらには東都での4年間で通算104安打を放っています。これは本当にとんでもない記録です。
誰もが亜細亜大からプロ、と思っていた
当時の藤岡を知る者なら、誰もがドラフトで指名されてプロに進むと思ったはずです。本人も「正直、プロに行けると思った」と、当時を振り返ります。
しかし、指名はありませんでした。僕は当時のドラフト会議を鮮明に覚えています。藤岡とはしゃべったこともないし、プレーを一方的に見ていただけだったのですが、指名がなかったことに本当に驚いたのです。「東都で100本打ってプロいけへんかったら、もう誰もいけへんやろ」と、勝手に悔しくなったのを覚えています。
だからこそ僕も、藤岡がトヨタ自動車を経てドラフト2位で千葉ロッテマリーンズから指名を受けたときは、とてもうれしかったのです。
今回、源田さんの自主トレにお手伝いとして参加させてもらい、藤岡も参加すると知ったときに「絶対あの時の話を聞いて帰りたい。どうやってあの指名漏れから立ち上がったのかを聞いてみたい」と思い、直接相談させてもらいました。すると「あんまりこういう経験してる人も少ないと思うから、俺でよかったら話すよ。」と、快く引き受けてくれました。裕大、ありがとう。
岡山理大附時代は最速149kmの剛腕
岡山県出身の藤岡は二つ上の兄の影響で、4歳から岡山リトルで野球を始めました。小学校1年生からは操明スポーツ少年団でソフトボール。中学生になると硬式野球チームの赤磐ベースボールクラブに入りました。その後、岡山県の強豪である岡山理科大学附属高校でプレーしました。
甲子園には出られなかったのですが、当時は投手兼三塁手の「二刀流」。最速149kmを投げる剛腕として活躍していました。三遊間を組んでいたのは、現DeNAベイスターズの柴田竜拓選手です。僕が平安高校にいたころ、藤岡や柴田のいる岡山理大附と練習試合をしたのをハッキリと覚えています。すごく強かったです。「甲子園に出てなくても強い高校はゴロゴロあるんだなぁ」と実感した対戦相手でした。
藤岡は高卒で投手としてのプロ入りを目指しましたが、早川宜広監督に「亜細亜大学の練習を見に行ってきなさい」と勧められ、実際に見学に行きました。環境がよかったことと生田監督からの熱心な誘いを受けたことで、亜細亜大学硬式野球部への入部を決めました。
東浜、九里、山崎がいて野手転向を決意
入部当初の思いについて「ピッチャーでプロにいこうと思ってた」と語ります。しかし当時の亜細亜大には、東浜巨(現ソフトバンク)、久里亜蓮(現・広島)。山崎康晃(現DeNA)など、一線級の投手がそろっていました。コーチからも「この中で勝っていけるのか?」と、サードへの転向を勧められました。「心残りは多少あったけど、戸惑いはひとつもなかった。野手でプロにいこうと思った」と振り返ります。そして守備の安定感と肩の強さを買われ、1年生の春から三塁手として試合に出続けたのです。
練習の厳しさで知られる亜細亜大学。藤岡も「練習もキツかったし、何度も逃げそうになった。野球をやめたいと思ったことは山ほどある」と、正直な思いを口にしてくれました。それでも亜細亜大学で生田勉監督から大切なことを学んだと言います。
「ひとりの人間としてどうあるべきか。ユニフォームを脱いでからの人生の方が長いから、どういう人間でいられるか。社会で通用するような礼儀や目配り、気配りを生田さんから教えてもらった。それは、いまでも本当に財産になってる」。このようなプレー以外の人間的な指導が、いまの時代に適したものかどうかはみなさんの判断ですが、野球をやっていく上でも、野球をやめてから社会で働く上でも、本当に必要になってくる部分だと思います。僕も平安高校で原田(英彦)監督から学んだので、すごく共感できました。
自主性について自分で気づいて実行できれば最高ですが、学生がみんなそうできるとは限りません。だからこそ、気づきへのヒントを与えてくれる指導者の存在は、後々になって本当に大きなものだと改めて感じさせられるのです。愛のある厳しさは人を育てます。愛がないと話は別ですが。これは絶対にそう思います。
常に向上心を持って野球に向き合った
「野球をやめたいと思ったことは山ほどある」と言った藤岡ですが、決してやめませんでした。それは「プロにいく、プロで活躍する」という揺るぎのない夢があったからです。
着々と成長し続けた亜細亜大学での4年間を、藤岡はこう振り返りました。「亜細亜にも東都のほかのチームにも、いい選手が本当にたくさんいて刺激になった。いいピッチャーもいっぱいいるから負けたくなかった。『これを打たないとプロにはいけない!』って危機感を常に持ちながら練習することで、4年間レベルアップできたと思う」と語ります。
順風満帆の4年間だったように感じますが、藤岡は否定します。「タイトルをとったり、日本代表に選ばれたりしたのはうれしかったけど、そんな時間は一瞬。周りを見ると『うわ、まだまだ上には上がいるな』っていう気持ちがあった。そしたら自分に必要な部分がハッキリと見えてくる。それがすごくいい経験になった」。どんなときも常に向上心を持って、野球に取り組んできました。
「それに、タイトルはチームが勝ててたからとれたっていうのも大きいと思ってる。5連覇したり、全国大会で結果を残したり。そういう中でタイトルをとれてたから、自分の力だけじゃない。周りにもすごく助けられてた。すごく感謝してる」と、仲間への感謝を口にしました。藤岡の話を聞いてると、足元をすくわれることなどなさそうな、しっかりとした生きざまや人間性が見えてきました。「一度も安心なんてしたことがないんだろうな、この人は常に命がけで野球をやってる人だ」と思うほどに、野球への情熱が伝わってきて、とにかくカッコいいなと思いました。これがプロ野球選手です。決して簡単じゃない。ここまで突き詰めないとプロ野球選手にはなれないんだ、と感じました。
そしてこれは僕が純粋に気になって投げかけた問いなのですが、これだけの結果を残して主将にはなりたくなかったのか、ということです。「俺はうまい言葉も人にかけられない。自分ができてないと人には言えないと思ってるから、その分いっぱい練習してプレーで見せて、チームを引っ張っていきたかった」。これも藤岡らしいところなんだなと感じさせられました。