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連載: プロが語る4years.

感謝を胸に、桐光学園の仲間と目指した日本一 齋藤拓実2

桐光学園入学前、齋藤は自らを「ヤンチャだった」と表現したが、恩師の思いも受け、仲間の大切さを学んだという(提供・B.LEAGUE)

連載「プロが語る4years.」から、男子プロバスケットボールのBリーグ「滋賀レイクスターズ」の齋藤拓実(24)です。明治大時代には“大学No.1ポイントガード”と呼ばれ、2018年春に卒業後はアルバルク東京へ進み、19-20シーズンは期限付き移籍した滋賀で戦いました。4回の連載の2回目は、桐光学園高校(神奈川)時代の仲間と日本一を目指した日々についてです。

新天地で開花した世代No.1ガード 齋藤拓実1

チームメートを引き連れ、桐光学園へ

神奈川県川崎市にある桐光学園は、進学校でありながら部活動も盛んだ。過去の卒業生を見てみると、野球では松井裕樹(現・東北楽天ゴールデンイーグルス)、サッカーでは日本の背番号10を背負った中村俊輔(現・横浜FC)らを輩出している。さらには昨年、サッカー部はインターハイで初の日本一に輝いた。

1978年創部の男子バスケットボール部もまた、これまで全国大会出場15回を数える実力校だ。夏のインターハイは10回、冬のウインターカップは5回出場しており、過去の最高の成績は夏冬ともに全国ベスト8。12年のウインターカップベスト8は、齋藤が主力としてプレーした2年生のときに打ち立てた。

桐光学園に進んだ理由はいくつかある。一つは齋藤の兄も同校の卒業生だということ。「僕が小学校6年生のときに桐光学園の体育館でミニバスの大会があったんです。兄が高校1年生だったので、そのときから弟ということで高橋(正幸)先生(現・桐光学園コーチ)が僕のことを見てくれていたのを覚えています」

齋藤は続ける。「正直、実家と中学校(市立白鳥中)からも近かったっていうのもあります。でも、決め手としては『一緒に行こう』って言えた仲間がいたからです」。齋藤が誘った仲間というのは、中学2年生のときのジュニアオールスターでともに神奈川県代表としてプレーしたチームメートだ。「当時はジュニアオールスターの選手が桐光学園に入ることはなかなかなくて、入ったとしても一人だけとかでしたけど、僕の代は3人入りました」

高2の冬、日本一のポイントガードと対戦し

高校生になってからは、より周りを生かすプレーが増えた。小・中学校時代、毎試合のように発揮していた得点能力に加え、この3年間でパスセンスにも磨きがかかった。その一つの結果として、2年生のウインターカップでは4試合で計26アシスト(平均6.5アシスト)を記録し、同大会の通算アシストランキングで2位になっている。

ちなみに、この大会のアシストランキング1位は5試合で計32アシスト(平均6.4アシスト)を積み上げた延岡学園高校(宮崎)の寺園脩斗(しゅうと、当時3年、現・三遠ネオフェニックス)。齋藤とは準々決勝で対戦し、のちに優勝まで駆け上がったポイントガードだった。「当時強かったのは延岡学園。どうせなら日本一のポイントガードと対戦したいという思いがありましたし、寺園選手と実際にマッチアップできたのはいい思い出でした」

高校時代の恩師から常に言われていたのは“仲間”、そして“感謝”という言葉。「アシストランキングで2位になれたのはシュートを決めてくれた仲間がいたからですし、『常にバスケットができる環境はもちろん、親や大会を運営してくれる人たちにも感謝しながらプレーしよう』とも言われていましたね」。入学前は「自分が一番」と言わんばかりにヤンチャだった若者は、桐光学園で少しずつ仲間を思う気持ち、周りへ感謝の心を持つ人間へと成長したようだ。

迎えた高校ラストイヤー、チームはインターハイでベスト16になったものの、ウインターカップは予選で敗れ、齋藤の高校バスケ生活は終わりを告げた。しかし、前年のウインターカップでのプレーが、当時明治大のヘッドコーチを務めていた塚本清彦氏の目に留まり、声がかかった。「高校2年生のウインターカップのときに、塚さんが解説か何かで試合を見ていてくれていて、それがきっかけで声をかけてもらえました。声をかけられた中で1番強いチームが明治でした」

大学では日本一になりたい

齋藤が明治大への入学を決意したのは高校3年生の夏。この年の明治大は、当時4年生だった西川貴之(現・三遠ネオフェニックス)や田中成也(現・広島ドラゴンフライズ)、3年生の安藤誓哉(現・アルバルク東京)、中東泰斗(現・名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)らが中心メンバーとなり、インカレ準優勝という好成績を残している。「一緒に入部する同期や大学のメンバーで日本一になりたい、という楽しみな気持ちがありました」と齋藤。偉大な先輩たちに追いつき追い越せるよう、高らかに明治大の門を叩いた。

高校では果たせなかった「日本一」を夢見て、齋藤は明治大に進んだ(写真提供・B.LEAGUE)

結論から言えば、大学4年間でチームとしては思うような成績が残せなかった。それでも、齋藤自身は入学当初から一定の出場機会に恵まれると、持ち前のスピード、得点力、パスセンス、戦術眼を緩急自在(かんきゅうじざい)に操り、大学バスケ界に名を轟(とどろ)かせていく。最終学年を迎えるころには“大学No.1ポイントガード”と呼ばれる存在にまで成長を遂げた。そして、U24の日本代表にも選出され、卒業を待たずに特別指定選手制度でアルバルク東京の一員になったのである。

順風満帆とまではいかずとも、スムーズに進んだように見える大学生活。だが、齋藤本人に言わせれば、明治大で過ごした4年間は「壮絶でしたね」と思わず苦笑いしてしまうほどだった。

指導者の不在、代表で培った技術を明大の仲間に伝え 齋藤拓実3

プロが語る4years.

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