自費でラグビー留学、セブンズであの高揚感を思い出し プロセブンズ選手林大成4
連載「プロが語る4years.」から、東海大卒業後にキヤノンイーグルスを経て、2018年4月より7人制ラグビー(セブンズ)専任選手としてプレーする林大成(27)です。東京オリンピック日本代表の候補選手にも選ばれています。当連載は林自身が自らの歩みをつづっていきます。6回の連載の4回目は、キヤノン時代と芽生えたセブンズへの思いについてです。
ラグビーは大学までと決めていた
東海大時代、僕はU20日本代表の候補になっておらず、そもそも公式戦デビューも3年生の秋と遅かった。そんな3年生のときに声をかけてくれたチームが1社あった。それも公式戦に出る前に、だ。理由を聞くと、下のチームにいて主張の仕方が激しかったころのふてぶてしい態度とパフォーマンスを見て、気になってくれていたという。ただ僕は、3年生のシーズンが終わったとき、社会人ではラグビーをやらないと考えていた。
しかし4年生になったばかりの4月、急に「1年だけでもトップリーグでプレーしたいかも」と思い立つ。トップリーグトライアウトの前日だった。ここを逃したらチャンスはないと思い、トライアウト主催者とつながりがある知人に連絡し、なんとかお願いした。先に東海大の木村季由監督へ連絡するのが筋だろうと分かっていたが、いかんせん、時間がない。木村監督の研究室の方向にごめんなさいと頭を下げ、話を進めようとした。
トライアウトに参加するには、履歴書の提出や保険の加入が必要だ。「特別扱いはできない」と断られたが、「うちのチームに個別でトライアルすることならできる」と言ってもらえ、翌週にはキヤノンイーグルスの練習に参加した。その日の夜、キヤノンから「受け入れたい」という電話をいただいた。ただ実のところ、社会人になってもラグビーを続けることに迷いがあった。結局、「お願いします」と返事をしたのは6月になってからだったと思う。
自費でNZ留学、学んだ2つのこと
15年、キヤノンに進んだ。プロを希望したが、最初は社員としての雇用契約だった。そのシーズンはプレシーズンも含め、半数近くの試合でメンバー入りを果たすも、鳴かず飛ばず。ラグビーは1年だけでもと考えていたが、ワールドカップでのジャパンの活躍に心を動かされた。自分もスポーツで人の感情をもっと動かせる選手になりたい。翌年もプレーすると決めた。
当初、キヤノンにはラグビー留学の制度があったが、16年から廃止になった。どうしても留学したかった僕はあきらめきれず、プロになってから3カ月、チームを離れさせてもらう交渉をし、16年3月に自費でニュージーランドに留学した。行きの飛行機の中でbe動詞の勉強をしたのを覚えている。
留学先はスーパーラグビーに所属するハイランダーズのあるオタゴ州。所属するチームには事前にプレー動画を送り、州代表のスコッドに入れてもらうところまで決まっていた。
スコッドにいる選手たちは、ラグビーで生きていくか働きながらラグビーをするかの瀬戸際にいる。朝6時からトレーニングに取り組むなど意識が高かった。契約を勝ち取り、プロとして生きる未来をつかむため、みんながハングリーでイキイキしていた。
そんなハングリーさとともに学んだことは、ぶつかりにいく姿勢だ。クラブチームの試合に出ると、味方にも相手にもその週のスーパーラグビーに出場しなかった選手がプレーしていたが、周りの選手はその選手との力関係など気にせず、お構いなしにぶつかりにいく。僕はそれまで相手選手との力関係を気にすることがよくあったが、ニュージーランドの選手達はそのときそのときの勝負を本当に楽しんでいるように見えた。
自分の価値を上げるため、セブンズへ
帰国後、キヤノンでの16年度シーズンは半分程度の出場だったと思う。17年度の契約交渉時、僕は当時のGMにセブンズ代表合宿への参加を打診した。自分の価値を上げるためだ。代表という肩書きは今後のキャリアにおいて武器になる。正直なところ、それ以上の思いはなかった。
セブンズ代表の招集初日、僕は15人制ラグビーのセンターでプレーしてきた分、セブンズではゲームコントロールまではできなくとも、FWの中でのアクセントとなれるのではと思い、フッカーでプレーしたいと頼んだ。そこには、足が遅いという弱点をなるべく隠したいという気持ちもあった。当時はセブンズにトップリーガーはほとんど参加しておらず、チャンスだと思っていたが、ワールドシリーズのメンバーを決める選考は2回連続で落ちた。僕には武器が何もなかった。
17年度のシーズン最後のヨーロッパ遠征メンバーにはギリギリ滑り込んだが、バックアップメンバーとしてだった。けが人が出たことでメンバー入りし、初めて代表として世界の舞台に立った。緊張、高揚、興奮。久しく味わえていなかったこれらの感情が懐かしかった。
自分を最も高揚させてくれるものを求め
その後もセブンズの代表合宿に参加し、自分の当初の目的であった「日本代表」という肩書きは手に入った。初めて代表合宿に参加したときや代表メンバーに選ばれたときは、いろんな人たちから賞賛されて気持ちがよかったが、そんな注目や優越感はもちろん長くは続かない。「セブンズを続ける理由はなんなのか」を考えるようになっていった。
僕はもともと、大学でラグビーをやめようと思っていたように、ことあるごとにラグビーを続ける理由を考えてきた。だがワールドシリーズという舞台でプレーしたことにより、ラグビーをする理由の一つが明確になった。高揚感。あの高揚感でもう一度プレーしたい。あの高揚感が忘れられない。これはある種の中毒と言ってもいいだろう。そしてもう一つ、東京オリンピックという舞台。競技人生最高の高揚感はここにあると思った。
15年のワールドカップを見て新たな思いが芽生え、当初は19年のワールドカップを目指していたが、どこか悶々(もんもん)としていた。その舞台が現在地からかなり遠いことは分かっていた。笑われようが、そんなものは努力次第でいくらでも可能性は切り開けるという思いはあった。ただ、その計り知れない努力をなすほどのモチベーションがどこか湧ききらなかった。「自分じゃなくてもいい」ということに、気づいてしまっていた。
でもセブンズはどうか。余白だらけだ。セブンズを応援してくれているファンの方には本当に感謝しているが、それでも国内ではエンタメとしてはあってないようなものだと感じていた。オリンピック種目でありながら国内リーグはない、チームもほとんどない、代表にあこがれても目指し方がない、見る機会や触れる機会がないから興味をもつきっかけがない、みんなあまり知らない……。
オリンピックという舞台があり、その舞台に人生をかけて臨むというのに、そんな状況は寂しい。セブンズはプレーヤーやファンはもちろん、まだ競技を知らない多くの人にとっても、もっと楽しみを生み出せるはずだ。セブンズでなら、オリンピックでの結果、それまでの過程で自分がつくり出せる価値は多くある。
だから僕は「東京オリンピックでの優勝」という目標を定めた。