バスケ

連載:4years.のつづき

脱サラして渡米、成長を感じる暇もないほどの競争の世界 東京エクセレンス・宮田諭3

宮田さんは就職後もバスケに邁進(まいしん)し、脱サラして渡米。ABAのオンタリオ・ウォリアーズの一員となった(写真提供・米光秀之さん)

今回の連載「4years.のつづき」は、B3リーグ「東京エクセレンス」の選手兼ゼネラルマネージャー(GM)の宮田諭さん(42)です。早稲田大学卒業後はサラリーマンをしながらクラブチームでバスケットボールを続け、アメリカ挑戦、トヨタ自動車アルバルク(現・アルバルク東京)を経て現在に至ります。5回連載の3回目は一般就職後も続いたバスケ人生、決意のアメリカ挑戦についてです。

早稲田1年目で留年を決意、生活の中心にバスケがあった 東京エクセレンス・宮田諭2

定時で帰り、バスケに情熱を燃やし

大学卒業後の進路も、宮田さんは「バスケができる」という判断基準で決めた。5年生の時に立ち上げたクラブチーム「エクセレンス」の活動と、留年分の学費返済を優先するため、高収入かつ残業が少なさそうな大手企業に手当たり次第にエントリー。「1浪2留は新卒扱いじゃなくなるので、エントリーシートの段階で9割方落とされた」と宮田さんは振り返るが、それでも大手電機メーカーからの内定を獲得し、システムエンジニアとして勤務することに。配属時から同じ部署の人々に「僕、バスケやっているんで定時で帰らないといけないんです」と宣言し、終業のチャイムが鳴ると颯爽(さっそう)とオフィスを出て行った。

そんな宮田さんは、社会人2年目の夏に参加したNBA現役コーチによるクリニックで、アメリカのサマーリーグ(プロを目指す選手の登竜門)のトライアウトに参加してみないかと声をかけられた。

宮田さんを含む4人の所属選手からスタートしたエクセレンスは、年を追うごとに強くなり、天皇杯や全国クラブ選手権の常連に。宮田さんも主力ポイントガードとして存分に腕を磨き、プロチームからの勧誘も何度か受けた。

「もしかしたら俺も第一線でやれるのかもしれない……」。そんな小さな希望が生まれた時に届いた、バスケの本場からの招待状(実際は、お金を払えば誰でも参加できるものだったのだが)。受け取らないわけにはいかない。有給を利用して参加したトライアウトに合格し、約1カ月間のリーグ戦を戦い抜き、最終日にはオールスターメンバーに選出されるほどの活躍を見せた。

渡米しABAへ、毎週解雇者が出る中で常に競争

この成功体験で本格的なアメリカ挑戦を決意した宮田さんは、会社を退職し、再渡米。トライアウトとキャンプを経て、アメリカ独立リーグ(ABA)のオンタリオ・ウォリアーズの一員となった。当時としては世にも珍しい“脱サラプロバスケットボール選手”の誕生だ。

宮田さんはここで初めて、プロとして生きることのシビアさを痛感したという。

本場・米国でプレーできる日々は楽しかった反面、シビアな世界で戦う緊張感を強く感じていた(写真提供・米光秀之さん)

「数人程度の募集に、100人も200人も選手が集まるんです。トライアウトに合格してもキャンプでどんどん落とされていくし、シーズン中も毎週のように解雇者が出る。毎日めちゃくちゃ楽しかったけれど、同時に『クビになったらどうしよう』という緊張感もすごかったですね。“常に競争”という環境で、成長や手応えを感じる暇もなかったです」

また、高額のギャランティが約束されたNBAと異なり、マイナーリーグであるABAの報酬はお世辞にもいいものではない。当時の宮田さんの報酬は月に15~18万円。貯金を切り崩してシェアハウスに住み、自炊でコンディションを維持する日々だった。

アメリカのバスケは楽しいけれど、長くプレーするのは難しいかもしれない……。就労ビザの都合でシーズン途中の帰国を余儀なくされた宮田さんが、韓国プロリーグへのアプローチ方法を検討していると、知人から「トヨタがお前を欲しがってるぞ」と連絡がきた。「トヨタ」とは、日本のトップリーグに所属するトヨタ自動車アルバルク(現・アルバルク東京)。日本屈指の超強豪チームが、大学時代ベンチウォーマーだった男を求めたのだ。

アルバルクでも折茂武彦さんたち仲間を日々研究

当時のアルバルクのメンバーは、宮田さんを除く全員がいずれかのカテゴリーで日本代表経験を持つ超エリート集団。現役の日本代表選手が控えに3人もいたという。国内での実績が皆無な27歳のオールドルーキーは、練習についていくだけで精一杯な日々を過ごしながら、大学時代と同じやり方でチームにフィットしようとした。

「まずは自分の存在価値を知ってもらわなければいけないので、周りの選手からストレスのない選手になることを心がけました。特に、日本屈指のシューターだった折茂武彦さん(現・レバンガ北海道代表取締役)や渡邉拓馬(現・解説者)がどのようにボールを欲しがっているかはよく見て研究しましたね。夜はひとりで残ってシューティングをした後、マネージャーにもらったその日の練習映像を、これでもかっていうくらい見る。せめて頭の中のイメージだけでも、チームのスタンダードに追いつかなければと必死でした」

アルバルクでもチームのスタンダードに追いつくため、練習と研究を重ねた(写真は本人提供)

「完全にお客さんだった」と振り返る1年目を越え、徐々に自分の持ち味を発揮できるようになっていた宮田さんに、劇的な瞬間が訪れたのは2年目の冬だった。天皇杯の初戦。三番手のポイントガードだった宮田さんはチームが流れに乗れない場面で投入され、アグレッシブなプレーで一気に流れを引き寄せた。これが評価され、次の試合からは二番手に昇格。決勝までの3試合すべてで20分以上のプレータイムを獲得した。宮田さんは「日本一を決める試合で、自分のやりたいようにプレーできた。バスケ人生が大きく変わった大会でした」と振り返る。

自分が戦える場所

ただ、時は流れ、常に同じではいられない。主力として定着した3年目を過ぎ、4年目に入ると、宮田さんの序列は再び三番手以下に下がった。「年長者としてチームをスムーズに回すことに力を注ぎ、試合に出れば仕事をしっかり果たす」。宮田さんは自らの役割を再設定し、それを誠実にこなしていたが、心の中は不明瞭な感情でいっぱいだった。

「基本的に僕は、自分が試合に出て勝たないと気が済まないやつなんです。誤解を恐れず言えば、自分が試合に出ないなら負けていいとすら思っている。そんな人間なので、プレー以外のことばかりを評価されたり、求められたりするのは正直嫌でした」

5年目のシーズンを終えて移籍リストに載った宮田さんは、再び必要とされる場所を探す旅に出た。32歳だった。

4years.のつづき

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