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連載:4years.のつづき

クラブチームから再びプロへ、激怒されながらも我が道を 東京エクセレンス・宮田諭4

古巣のクラブチーム「エクセレンス」で、宮田さん(右)は選手としてだけでなくコーチも担った(提供:東京エクセレンス)

今回の連載「4years.のつづき」は、B3リーグ「東京エクセレンス」の選手兼ゼネラルマネージャー(GM)の宮田諭さん(42)です。早稲田大学卒業後はサラリーマンをしながらクラブチームでバスケットボールを続け、アメリカ挑戦、トヨタ自動車アルバルク(現・アルバルク東京)を経て現在に至ります。5回連載の4回目はトヨタ自動車アルバルクを離れてからも続いたトヨタ自動車社員についてです。

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別のプロチームのトライアウトを受ける道もあったが……

あくまでコート上で結果を出すことにこだわる宮田さんは、日本屈指の強さと環境を備えたトヨタ自動車アルバルクを離れ、自分が望むようにプレーできるチームを探すことを決めた。しかし、難航した。というのも、アルバルクは退団したが、“トヨタ自動車社員”の籍は残っていたからだ。

実は宮田さん、加入4年目にバスケ専業の嘱託選手から、社業にも携わる社員選手になっていた。「拾ってもらった恩もあるし、選手が専業でプレーするために会社がどのようなサポートを行っているかを知りたい」という思いもあり、宮田さんは人事担当からの提案に快諾。出社は月1回午前中のみで、所属部署に挨拶をする程度だったが、一般社員とのつながりを実感するようになった。

当時は「バスケを引退したら会社もやめるだろうな」と思っていた。しかし実際に社員として勤務すると、自分を社員にするために会社がどれだけの労力を使っていたかがよく理解できた。実業団チームの誘いはあったし、プロチームのトライアウトを受けるという選択肢もあった。だからといって、会社側の労力に能(あた)わないまま、たった1年でやめてしまっていいのか……。悩みに悩んだ結果、宮田さんはトヨタ自動車に勤めながら古巣のクラブチーム「エクセレンス」でプレーすることを決めた。

“引退”ではなく“移籍”

自分で決めたことではあったが、日本屈指の強豪からクラブチームへの“都落ち”は、当初は非常にこたえたという。「悶々(もんもん)としていましたね。表向きは『クラブチームも楽しい』って言っていましたけど、さすがに、選手のレベルから練習強度から環境から、アルバルクとのギャップがありすぎて……」。このままでは決断を後悔するとの思いから、コーチの兼任を申し出た。

しかしプレーを重ねるにつれて、レベルやカテゴリーは違えど、選手たちの一生懸命さやバスケを楽しむ思いには優劣がないと気づいた。「今いる場所で一生懸命やれないやつに、どうこう言う資格はないな」。トップチームで自分が得たノウハウを若い選手たちに惜しみなく与えつつ、自分もバスケを全力で楽しむ。そんなマインドが少しずつ形成されるようになっていった。

出戻りから3年目となる2012年、宮田さんは当時のクラブ代表より「プロ化して、トップリーグ2部に参入したい」と相談を受けた。表舞台への復帰を半ばあきらめかけていた宮田さんのもとに、降って湧いた朗報。自ら選手やコーチ、スタッフ集めに奔走し、狩野祐介(現・名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)、西山達哉(現・信州ブレイブウォリアーズ)ら優秀な若手を獲得した。「東京エクセレンス」と名を改めたチームは同年7月にNBDL参入を認められ、宮田さんもプロ選手として契約書にサインした。

トップリーグを離れ、プレーの場をクラブチームに移す。世間一般的には“現役引退”として扱われる事象だが、宮田さんは頑として引退という言葉を使わず、自身のブログで「移籍」とアピールした。「完全なる負け惜しみでしたけどね」と宮田さんは笑いながら、続けた。「プロ契約を交わした時に(ブログに)書いた記憶があるんです。『あの時書いた負け惜しみを覚えてますか? ほらね、引退じゃなくて移籍だったでしょ?』って」

広報として技術者たちに猛アプローチ、変革を体現

ここからは選手と並行して力を注いだ、宮田さんのトヨタ自動車の社員としての超破天荒な仕事方法を紹介しよう。

(左から)宮田さんに広報のすべてを教えてくれた塩谷さん、レクサスのクルマ造りを根っこで支えてこられた池上さんと一緒に(写真は本人提供)

アルバルク退団後に宮田さんが配属されたのは広報部。しかし、宮田さんは車にまったく興味がなく、自社の車種ですら2~3種類しか知らなかった。このような状況に置かれた時、普通の人は「本を読んで勉強する」とか「しばらくの間はおとなしく様子を見よう」となるのだろうが、宮田さんは違った。知識を持つ人間をつかまえ、話を聞きまくったのだ。なぜなら、宮田さんのプライオリティは当然バスケ。バスケに使う時間だけは意地でも削らないという断固たる決意があった。

まず、車が作られるまでの仕組みや背景にあるエピソードを知るために、各モデルのチーフエンジニアたちに電話をかけた。車作りに対して「ロボットがガチャガチャ作っている」レベルの認識しかない宮田さんが、世界指折りの技術者たちを相手にごくごく初歩的な質問を繰り返すのだ。たいていの人は『二度とかけてくるな』と激怒したが、宮田さんはあきらめない。アポなしで彼らのもとを訪れ、再び烈火のごとく怒られつつ、「トヨタの車のことを知るには、あなたに聞くのが一番の正解。話を聞かないと帰れません」と譲らず。

怒られ続けながら失敗も繰り返していく中で、頑なだったエンジニアたちが少しずつ仕事の仕方を教えてくれるようになり、気が付けば初歩中の初歩の知識から秘蔵のエピソードまで、聞けば何でも話してもらえるようになった。

ワールドプレミアで豊田章男社長がドライバーとして登場するなど、車好きにとって堪(たま)らない車種として知られた「トヨタ86」を担当したこともあった。つながりのできたモータージャーナリストや車雑誌の編集者と、「何か面白いことをしよう」と話すようになっていくのもこのころからだ。

宮田さん(右から2人目)がレクサスの広報時代にお世話になった方々。「3人は僕のバスケ以上にクルマを愛していて、クルマのことも仕事の仕方も業界のことも、素人の僕をイチから育ててくれた恩人です!」と宮田さん(写真は本人提供)

そして、国内販売が始まったばかりだった「レクサス」の広報に抜擢されると、「従来のやり方を変革せよ」「3年でライバルよりもかっこいいブランドにせよ」というミッションを果たすために、宮田さんは満を持して「面白いこと」を仕掛けた。メディアを海外イベントに招待したり、開発段階の車の試乗体験を記事にしてもらったり……。「『なんでこんなにお金がかかるんだ』って、経理といつもケンカしていた記憶があります」。宮田さんは当時を振り返って笑った。

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4years.のつづき

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