バレー

連載: プロが語る4years.

法学部にこだわり中央大へ、初の日本代表候補入りで鍛えたジャンプ力 福澤達哉2

バレーよりも法学が学べる大学を真っ先に考え、その結果、福澤は中央大学に進んだ(写真はすべて本人提供)

今回の連載「プロが語る4years.」は、バレーボール男子日本代表としても活躍するウイングスパイカーの福澤達哉(34)です。2009年に中央大学卒業後、Vリーグのパナソニックパンサーズに進み、2015-16シーズンはブラジルスーパーリーグのマリンガへ、19-20シーズンからはフランスリーグのパリ・バレーに移籍してプレーしています。4回連載の2回目は法学部にこだわって進学した中央大で、初めて日本代表候補選手に選ばれた時の話です。

見て学ぶことに長けたスポーツ万能少年がバレーと出会った 石川祐希1

早稲田に進学するはずだったが……

洛南高校(京都)時代には勉強にも勤しみ、取るべき成績は取った。しかもバレーでも、インターハイ優勝という申し分ない成績がある。自らの力で増やした選択肢の中から、ではどの大学に進むか。まず考えたのはどちらかと言えば不得手な数学や化学、物理など理数系は向いていない。ならば文系で興味があるのは何か。そこで浮かんだのが法学部だった。

とはいえ、法律家になろうとか、大義名分があったわけではない。「当時、キムタク(木村拓哉)が出ていたドラマとか、『行列のできる法律相談所』とか、バラエティでも法律に触れる機会が多くあったんです。それで単純に、面白そうやな、と(笑)。洛南から指定校でいける学校の中から、法学部のある総合大学を探しました」

あくまで福澤の立場から見れば、自ら興味のある法学部へ進もう。それだけの話だが、バレー選手として福澤をスカウトしたい大学側の立場からすれば事情は異なる。インターハイ優勝、高校選抜、なおかつ将来有望。そんな選手は何としてもほしい。本人がいくら「法学部を希望する」と言っていようと、次々「ウチへこないか」と勧誘は絶えず、福澤の進学先がなかなか決まらないため、他の選手にもなかなか声がかけられない。だいぶ後になってから当時の苦労を聞いた、と笑いながら振り返る。

「最初は早稲田の法学部にいこうと決めていたんです。そこも実は単純で、僕は関西の人間なので、関東の大学と言えば“早慶”のイメージ。バレー部もあって、スポーツが盛んで、なおかつ法学部もあるなら早稲田。それぐらいにしか考えていませんでした」

ところが夏が過ぎたころ、状況が変わる。前年までは設けられていた早稲田大学法学部への指定校入学の枠自体が、その年は消滅。慌てて政治経済学部や文学部など他の学部への進学を勧められるも、福澤としてはあくまで学びたいのは法学部。早稲田には「法学部で学びたいから」と断りを入れ、高校の先輩でもあり、「早稲田へいきたい」と言い続ける中でも最も熱心に足を運び、声をかけ続けてくれた木村正憲氏が監督を務めた中央大を選択した。

バレー部の仲間とはできるだけ一緒に行動しない

結局バレーで選んだのか。そう思うかもしれないが、実は違う。スポーツ推薦で入学する道もあったがあえて断り、当初の予定通り、福澤は指定校推薦で中央大に入学。結果的には同じバレー部に入るのだから、指定校推薦でもスポーツ推薦でも変わりないのではないか、と思われがちだが、そこには大きな違いがあったのだと言う。

世界を狭めたくないと考え、日常生活ではあえて、法学部の友達などと一緒に過ごしていた

「中大はスポーツ推薦だと必ず寮に入らなければならないんです。しかもバレー部は昔からの寮なので、1年生から4年生が1部屋に住み、パーソナルスペースはベッドの上しかないと聞いていたので、監督に電話して『僕、指定校推薦でいくやないですか。それって、一般生と同じ扱いだから、一人暮らししてもいいですよね?』と(笑)。団体スポーツだから寮に入った方がいいのは分かっているんです。でも、あまりに窮屈だから『あの環境だと勉強もできません。僕、勉強もしたいです』って。今思えばものすごく生意気な学生ですけど(笑)、それも自分が高校で勉強した成果だったり、やりたい格好を整えるために自分がつくった選択肢のひとつでもある。その発想は、今でも変わりません」

最初は興味本位で法学部を希望したものの、中央大学法学部と言えば、名門中の名門でもある。せっかく入ったのだから、バレーだけでなく高校時代と同様に勉強をして、弁護士など法律家として生きる道もあるのかもしれない。入学当初はそう考えた。まずそのために定めたルールはひとつ。バレー部での活動時間以外は、バレー部の仲間とはできるだけ一緒に行動しないこと。

「体育会のグループ、バレーボールのグループにいると世界がそこだけになってしまう。それが僕は嫌やったので、普段はまったく別の友達と一緒にいました。それこそ彼らは本気で弁護士を目指すために中大法学部に入ってきていたので、大学の授業プラス、司法試験に向けた予備校にも通っている。1年生のころから当たり前のようにダブルスクールで勉強していました。その姿を見たら、『これは無理や』と。高校のころと同じように内申点だけ取っておけばいいというレベルではなく、大学の4年間はその4年間を通して自分が何になりたいか。そのための準備期間であり、将来自分はどういう職に就いて、どんなアクションを起こさなければならないか。真剣に将来設計をするためにプランニングする時間なんだと思い知らされました」

初の日本代表候補選手選出、毎日ジャンプし続けた

新たな気づきを得た矢先、転機は重なるもので、バレー選手としてもひとつ、大学1年目で大きなターニングポイントを迎える。日本代表候補選手への選出だ。前年のアテネオリンピック出場を逃がし、05年から男子バレー日本代表監督に植田辰哉氏が就任。1992年のバルセロナオリンピック以後、オリンピック出場を逃してきた男子バレー復活の礎を築くべく、植田監督は新戦力も積極的に招集。そのひとりが福澤だった。

高校や大学とはまるで違うレベルと意識の中で過ごす日々。練習の厳しさはもちろんだが、それぞれが卓越した武器を持つ集団の中で、何を持ち味にするか。「ジャンプで生きていこう」と考えるようになったのは、このころだった。

トレーナーから指導を受けながら、日々、ジャンプの練習を重ねてきた(左が福澤)

「当時の僕には武器がひとつしかない。とりあえず高く跳べる、というだけやったんです。でも、それだけでも僕にとっては大きなチャンス。だって、いわばプロと言うべき日本代表選手の中に大学生がポンと入って、そのレベルに追いつけるかというとそんなことはない。それならせっかく選ばれた以上、ここだけは負けないポイントをつくろう、それが僕にとってはバレーボール選手としてトータルで勝負するというよりも、ひとつの特化した部分をひたすらアピールする。そういう攻め方でした」

そのために大学での練習時はバレー部専属のトレーナーから指導を受け、ジャンプ力を伸ばすためのトレーニングメニューを組んでもらった。成果が目に見えて分かりやすいように、大学の体育館には3m45、3m50、3m55の高さにプレートを作ってもらい、毎日必ずそこを目指してジャンプし続ける。それまでは、自分のバネだけで跳んできたジャンプに、トレーニングを連動することによって、筋肉のどの部位を鍛え、使えるようになるのが効果的か。踏み込みの角度はどうすべきか。一つひとつひも解いて考えた。

「大学に入って、代表に呼んでいただいて、チャンスがあるかもしれないと大きな目標ができた。法学部で何を学ぶかよりも、バレーボールでどう生きるか。自分の人生、軸が定まった瞬間でした」

プロが語る4years.

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