中大主将として臨んだ最後のインカレ、ベテランになった今も前だけを見て 福澤達哉4
今回の連載「プロが語る4years.」は、バレーボール男子日本代表としても活躍するウイングスパイカーの福澤達哉(34)です。2009年に中央大学卒業後、Vリーグのパナソニックパンサーズに進み、2015-16シーズンはブラジルスーパーリーグのマリンガへ、19-20シーズンからはフランスリーグのパリ・バレーに移籍してプレーしています。4回連載の最終回は最後の全日本インカレ、そしてベテランと言われるようになった今についてです。
大学バレーで初のセンターコート、相手は清水邦広
大学生でオリンピック出場というとてつもなく大きな経験を経て、4年後、再び同じ舞台へ立つと目標を定める。そのためにクリアしなければならない課題は山ほどあったが、まずひとつ、越えなければならない大きな壁。それは中央大でのタイトル獲得。最後のチャンスが、大学4年生での全日本インカレだった。
「1年生のころから日本代表に選んでいただいて、オリンピックにも出ることができた。でも中大ではどうか、といえば全日本インカレはいつもベスト8やベスト16、センターコートに立つことすらなく負ける悔しさをずっと持ち続けてきたので、最後は何としても勝ちたかった。OQT(オリンピック最終予選)や北京オリンピックを経験して、負けられない戦いの裏には必ず覚悟が必要だと突きつけられ、大きな壁を越えるためには、技術以上のものが必要だと実感してきました。4年生の時は日本代表でほとんどチームにはいられませんでしたが、最後はキャプテンとして。自分の言葉がけひとつでベクトルが同じ方向に向くのなら、惜しまずやろうと思っていました」
4年目で初めてたどり着いたセンターコートの準決勝で対峙したのは、一緒に北京オリンピックを戦ってきた清水邦広(現・パナソニックパンサーズ)が主将を務める東海大学。振り返れば春高もインターハイも、高校時代からいつも重要な局面では清水と戦い、その都度、勝利したのは福澤の洛南高校(京都)だ。だが大学入学後は形勢逆転。春、秋リーグや全日本選手権を制してきた東海大に対し、いまだタイトルどころかインカレの決勝にも進めなかった中央大にとって、挑戦者として挑む最後のチャンス。
互いに北京オリンピックへ出場した両エースを擁し、周囲は清水対福澤、と見るがそうじゃない。日本代表でチームを離れていた期間にチームをつくり、まとめてきてくれた仲間たち、同級生も後輩も、中央大だけでなく東海大も、まさにそこにいる全員が自らのやるべきことをやり尽くす。決して大げさではなく、総力戦と呼ぶにふさわしい試合で、点差が離れてもまた追いつき、離されても食い下がる。激闘、と呼ぶべき準決勝はフルセットの末、東海大が制した。
負ければ当然悔しい。しかも決勝まであと一歩と迫っていたのだから余計に。試合後、悔しさを露わに涙する選手もいたが、主将として福澤が動いた。「全員を集めて『メダルをとるチャンスがもう1回(翌日の3位決定戦)あるんだから、今は泣いている場合じゃない』と。何より僕自身も、やっとたどり着いたセンターコートで負けっぱなしでは終わりたくなかったんです」
その言葉でチームに一体感が生まれ、準決勝の悔しさも力に、順天堂大学との3位決定戦を中央大はフルセットの末に勝利した。「あの達成感はまさに学生だったからこそ味わえた感情です。最後のインカレや、オリンピックへの過程。大学で日本一になることはできませんでしたが、人としても大きく成長できたのが大学生活の4年間でした」
「やれるべきことはやった」と思えるように
あれから12年。「もうだいぶ前の話」と笑うが、自身の長所を少しでもアピールすべく、今いる場所で戦い続ける。その姿勢は、10代から20代にかけての洛南から中央大、そしてパナソニックへ進み、ブラジル、フランスと海外リーグでの経験を重ねる30代になった今も変わらない。
「代表に入った当初はジャンプしか取り得のない人間だったのが、年齢や経験を重ねる中でプラスα、色々とアピールポイントや引き出しを付け足して今があるんですけど、でも根本は同じです。プレーヤーとして、自分はこういう選手なんだ、というものを見せないと日本代表や、競争社会で生き残ることはできない。そこに対するこだわりや努力、練習に対する取り組み方は何ひとつ変わっていないし、それは大学4年間の中で上を目指すチャンスをもらえたからこそ身についた習慣なんだと思いますね」
法学の道を絶ち、バレーで生きる、と決めてからは与えられたチャンスを生かすべく、オリンピックを目指し、戦い続けてきた。パナソニックへ入り、Vリーグや天皇杯、黒鷲旗で何度頂点に立とうとも、ロンドン、リオデジャネイロとオリンピック出場のチャンスをつかめず、失意を味わいながらも、もっとうまくなりたい、そう願い、また進む。歳を重ねても、気づけばずっと、その繰り返しだった。
だから、一度はユニフォームを脱ごうと決めながらも、もう一度、と目指し、集大成として臨むべく、大きな目標に掲げてきた東京オリンピックが延期になった時もそう。先のことなど分からないのだから、今すべきことをやるだけ、と気付けば自然に前を向くことができた。
「この年齢になれば、毎日、いつ終わるか分からないリスクをはらんでいると思うんです。だから、僕がやらなければならないのはどこかで急にスパンと現役生活が絶たれたとしても、そこまでのバレー生活を振り返った時に『やれるべきことはやった』と思えるようにすること。東京オリンピックが開催されて、そこに自分が立ち、目標とするプレーができた。そういう日がくればベストです。でも、そうじゃなかったとしても、自分が持ち得る選択肢を少しでも多く持ち、選択できるように、と取り組んできた過程や努力してきた過程は絶対マイナスにならないと思うし、いつ、その“いつか”がきたとしても、やるべきことはやった、と思いたい。だからこそ、頑張れるし前に進めるんだと思うんです」
「自分が見ている世界で、すべてが変わる」
洛南を選んだ時も、中央大学法学部へ進んだ時も、パナソニックに決めた時も、いつだって基準はバレーだけでなく、その場所で自分がどうなりたいか。
「自分の進む環境を広げるのも狭めるのも自分次第。チャンスはどこに転がっているか分からないわけですよ。でも、そのチャンスに気づくためには教養や知識を持って、色々なところにアンテナを張って興味を持っているかどうかやから、バレーボールだけやればいい、というわけやないんです。今の学生にそんなことを言っても1割ぐらいしか伝わらないかもしれないけれど(笑)、自分が見ている世界で、すべてが変わる。そうすればきっと、自分が勝負すべき場所でも結果は返ってくる。僕はそう思いますね」
コロナ禍の20年秋、福澤はパリにいる。昨シーズン同様、パリ・バレーの選手として自身より若い選手たちと競いながら、今できることを全力で。その一歩一歩が、目指すべき場所へとつながると信じて、今日も全力でバレーと向き合う。学生時代と同じように、前だけを見て、がむしゃらに。