バレー

連載: プロが語る4years.

清水邦広と一緒に挑んだ16年ぶりの五輪、自分たちの責任を誓い合った 福澤達哉3

福澤(右)は同学年の清水邦広(中央)と高校時代から競い合ってきた(撮影・朝日新聞社)

今回の連載「プロが語る4years.」は、バレーボール男子日本代表としても活躍するウイングスパイカーの福澤達哉(34)です。2009年に中央大学卒業後、Vリーグのパナソニックパンサーズに進み、2015-16シーズンはブラジルスーパーリーグのマリンガへ、19-20シーズンからはフランスリーグのパリ・バレーに移籍してプレーしています。4回連載の3回目は中央大時代に挑んだ北京オリンピックについてです。

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日本代表の最終選考で落選

大学1年生の時から日本代表候補に選出されるも、合宿は呼ばれても国際試合への出場機会はなかなか訪れない。先にチャンスをつかんだのは、高校時代から切磋琢磨(せっさたくま)してきた同学年の清水邦広(当時東海大、現・パナソニックパンサーズ)だった。大学3年生になった07年、清水はワールドカップに初出場したが、福澤は最終選考で落選。悔しい結果となったが、自身は意外なほど冷静に、なぜ自分が選ばれなかったかを客観的にとらえていたと振り返る。

「まず何より、僕はバレーボールのレベルが圧倒的に低かったんです。僕にはジャンプしかないわけですから、爆発力はあるけれどトータルで見たら全然足りない。そこで少しでも将来性を見出してもらえたら自分にもチャンスはあるけれど、単純に実力で見れば届かないのは分かっていました。だから植田(達哉・元日本代表監督)さんから『今回は残念だけど外れる』と言われた時も、一生懸命やってきたけれど自分の今の実力では足らなかったんや、と素直に思いましたね」

清水と一緒に臨んだ4人だけの合宿

ワールドカップで活躍する清水の姿を見れば、悔しさも抱く。次こそは自分も、と日本代表、そして翌年迎える北京オリンピックへの思いも強くなったが、漠然とした憧(あこが)れだったオリンピックが、真の意味で目標になったのもこのころ。大学3年生の全日本インカレを終え、代表選手の多くがVリーグで戦う2月、植田氏は清水と福澤を招集。基本技術と基礎体力を鍛えるべく、コンディショニングコーチの大石博暁氏と4人での合宿が始まった。

毎日ひたすらウェートトレーニングと体力トレーニングに明け暮れ、その後はひたすらサーブレシーブの練習を繰り返す。

「植田さんからは『福澤は爆発力があるかもしれないけれど、それを上回るぐらいサーブレシーブがヘタクソだ』と。とにかく反復、反復のいわゆるスポ根です(笑)。でも、学生時代にあれだけハードなトレーニングをしたおかげで、突発的なものを除けば大きなけがもなくここまでできているのは間違いない。何より、あの時間があったおかげで植田さんの真意を伝えてもらえたと思うし、ものすごく、貴重な時間でした」

92年のバルセロナ以後、16年もの間遠ざかったオリンピック出場。男子バレー復活のために、それは悲願ではなく、果たすべく任務だった。当然ながら合宿が始まれば練習は厳しく、体育館を離れた生活面も管理され、大学生だった福澤や清水にとって当時の植田監督はただひたすら厳しく、怖い人。だが、4人での合宿時は必然的に毎日毎夜、一緒に食事をして、話を聞く。その都度繰り返される「オリンピックに出れば人生が変わる」「だからこそ、これからの日本を背負う君たちには何としてもオリンピックにいってほしい」という言葉が、深く、心に響いた。

「何とか自分たちを引き上げようとしてくれる。その思いが単純にうれしかったですし、何としても応えたい、と。それまでは漠然と、オリンピックいけたらいいな、自分もメンバーに引っかかればいいなと思っていましたが、そんな意識じゃダメだというのがよく分かりました。自分でポジションをつかまないといけないし、そのためには1個の武器だけでなく、苦手なことも克服して粗さをなくさないといけない。何が何でもオリンピックに出ようという気持ちになりましたし、あの時間がなければ、ただ身体能力が高いだけの選手で終わっていたかもしれない。すごく大きなターニングポイントでした」

日本代表の活動があり、中央大チームと過ごす時間は限られていた(右が福澤、撮影・朝日新聞社)

あと1点が取れず、あの津曲勝利さんの怒りで火がついた

迎えた08年6月。福澤は北京オリンピック最終予選に日本代表として臨む。北京オリンピックへの出場権を得るためには、全体1位かアジアで1位。8チーム中上位2つに入らなければならない。

ひとつも負けられないと言っても過言ではない短期決戦。だがその初戦となる対イタリア戦。日本は2セットを先取し、第4セットも24-17と7点差をつけ、マッチポイントを握る。出場国の中でも最上位とも思えた相手に勝利すれば大金星であり、決して大げさではなくオリンピック出場がグッと近づく。あと1点。会場中の期待が高まる中、招いたのは劇的な勝利ではなく悪夢のような結末。

あと1点を取れば勝利。圧倒的有利な状況から、日本はその1点が取りきれず、7点差を覆したイタリアがジュースの末に第4セットを奪取。一度失った流れをつかむことができないまま、フルセットの末、日本は逆転負けを喫した。

試合後の重く沈んだロッカールーム。だが、それでも「もうダメだ」とは思わなかった。福澤はそう振り返る。

「全員が負けた悔しさ、いら立ちを露わにする中、一番声を荒げて怒っていたのが津曲(勝利=現日本代表コーチ)さんだったんです。リベロというポジションで、まさに縁の下の力持ち。いつも冷静沈着な津曲さんが怒りを抑えきれなかった。自分で得点を取ることができないリベロからすれば、何であの1点が、と思いますよね。怒るのは当たり前。でもそういうキャラでもタイプでもない津曲さんが、そこで怒りを露わにした。その姿を見た時、全員が負けた喪失感ではなく、『絶対にここからもう1回やってやろう』と次に向けて、切り替わっていた。それぞれが持つ覚悟を感じた、象徴的なシーンでした」

「連れていってもらった場所」

翌日のイラン戦に3-1で勝利した日本は、その後も勝ち続ける。ベンチで出番を待つ福澤は、清水とともに「試合に出たい、出せよ」と思い続けていた。その一方で、気迫を前面に打ち出して戦う主将の荻野正二(現・サントリーサンバーズアンバサダー)やセッターの朝長孝介(現・大村工高監督)の姿を目の当たりにし、チームとして日々増していく一体感を肌で感じる度、すごさを思い知る。

そのまま折れてもおかしくない初戦から立て直し、4勝1敗で迎えた大会6日目のアルゼンチン戦。日本は2時間を超えたフルセットの末、最後は主将の荻野のスパイクで劇的な勝利を収め、16年ぶりにオリンピック出場権を獲得。同じ場にいるのにどこか別世界のような濃密な戦いの日々を終え、いざ挑むは北京オリンピック。

福澤は清水とともに最年少で北京オリンピックに出場した(撮影・朝日新聞社)

「連れていってもらった場所」。その後も何度も繰り返す、福澤にとって初めての舞台で、今自分にできることを、と一心不乱にプレーした。だが、オリンピックに出ることで精一杯だった日本に対し、世界一を目指して戦う強豪国とは目の色も、それまでの準備の違いは否めず、予選グループリーグで0勝5敗。

その日から清水とともに誓った。「次は連れてきてもらうのではなく、自分たちがオリンピックに連れていけるような選手になろう」と。

プロが語る4years.

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