陸上・駅伝

連載:4years.のつづき

全てを捧げ感謝を込めて挑む五輪、スポーツの力を学生たちにも 富士通・澤野大地4

リオデジャネイロオリンピックで澤野は7位入賞。日本人選手の同種目入賞は1952年ヘルシンキ大会で6位の沢田文吉さん以来だった(撮影・朝日新聞社)

今回の連載「4years.のつづき」は、棒高跳びの日本記録保持者(5m83)で3度のオリンピック(2004年アテネ、08年北京、16年リオデジャネイロ)を経験し、40歳になった現在、東京オリンピックを見据えている澤野大地です。富士通で競技を続ける傍ら、母校である日本大学の専任講師とコーチを務めています。5回連載の4回目はこれまでのオリンピックと日大での教員生活についてです。

日大・江島雅紀 両親の励ましに応えて日本選手権初V、澤野大地へも恩返し

初の五輪で20年ぶりとなる決勝進出

03年3月に日大を卒業してからはニシ・スポーツの社員として競技を続けた。入社した際、当時の社長から「ひとつだけ約束してほしい。オリンピックに行ってもらいたいんだよ」と言われ、澤野は「もちろんです」と答えた。シドニーオリンピックに出られなかった悔しさをずっと胸に抱えていた。その年の6月にあった日本選手権で自身初の日本記録(5m75)を樹立し、8月の世界選手権(パリ)に初出場。決勝進出を果たすが、直前のウォーミングアップで肉離れを起こし、棄権している。

04年、シーズン初戦となった1月の室内競技会(アメリカ)で室内日本記録(5m70)をマーク。6月の日本選手権で5m80を跳び、自身がもつ日本記録を更新。初のオリンピックとなったアテネオリンピックでは、日本人として同種目20年ぶりとなる決勝に進み、5m55の記録で13位だった。「あの時、ニシ・スポーツに拾ってもらえていなかったら、自分はどうなっていたのか分からないです」。競技に集中できる環境を整えてくれた人々への感謝の気持ちを忘れていない。翌05年に記録した5m83は、今も日本記録として刻まれている。

澤野はニシ・スポーツで競技をしながら大学院に通った(撮影・朝日新聞社)

ニシ・スポーツに所属している間、澤野は日本大学大学院に通った。学部生の時に「将来のために」と考えて教員免許を取得していたが、大学で教べんをとることも見据え、修士課程で学びたいと考えた。修士論文は棒高跳びのバイオメカニクスと自分の競技をテーマにしたが、運動生理学やスポーツ心理学などより専門的な学びができたことは、競技者としての今にも生きている。

リオ五輪入賞は富士通の仲間がいたから

08年には北京オリンピックに出場。09年からは千葉陸協登録で競技を続け、富士通陸上競技部の顧問だった木内敏夫さんの縁で、12年4月から富士通に所属している。その12年にはロンドンオリンピックがあった。澤野の目標もそこにあったが、3大会連続出場をかけた日本選手権で5m42と同じ記録ながら試技数で2位になり、代表選考から漏れた。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。32歳。引退という言葉もちらつく。しかし、オリンピックに出ないで引退するという選択肢は自分の中になかった。

富士通の選手たちは基本的にそれぞれの環境で練習しているが、ときには高平慎士(17年引退)や塚原直貴(16年引退)、髙瀬慧、岸本鷹幸など、世界の舞台で活躍してきた富士通の選手たちと一緒に走ることもあった。「日本のトップ選手たちとも普通に一緒に走り込みができていました。それがすごく大きかったですね。富士通というチームだからこそできる練習だと思います」と澤野は振り返る。そして16年、リオデジャネイロオリンピックで04年アテネ大会以来となる決勝に進み、5m50で7位入賞。日本選手による棒高跳びでのオリンピック入賞は、64年ぶりとなる快挙だった。

リオデジャネイロオリンピックの予選で5m45、5m60を1回でクリアし、決勝進出を決めた(撮影・朝日新聞社)

リオデジャネイロオリンピックを目指していた時は、「リオは行けても行けなくても、それで終わりかな」と思っていた。しかしその舞台を終え、最高の成績を残せて、体には何も痛みがない。36歳でもまだ跳べると思えたことに加え、富士通からも引き続きサポートすると言ってもらえたことで心は決まった。次のオリンピックは東京。全てを捧げて目指すだけの価値がある舞台だと感じた。

学生から受ける刺激

16年からは富士通に所属しながら日大スポーツ科学部の専任講師として教べんをとり、陸上部のコーチとして学生たちを指導している。日大は19年に創立130周年を迎えるにあたり、16年に危機管理学部とスポーツ科学部を開設することが決まっていたため、教員生活はリオデジャネイロオリンピックに向けた重要な時期の中で始まった。東京オリンピックを目指す今も、日大に入学したばかりの学生たちとも向き合いながら授業をもち、練習時間には自分のトレーニングと並行して学生たちを指導している。

また日大では企画広報も担っており、今年3月には三軒茶屋キャンパス広報誌「SANCHA」の企画として、スノーボード・ハーフパイプ/スケートボードの平野歩夢(21年日大卒)と水泳の池江璃花子(日大3年、淑徳巣鴨)の対談を実現。対談の進行だけでなく、紙面の編集も担当した。「陸上に限らず学生にもすごい選手がいっぱいいますので、本当に学生から刺激を受けています。コーチングや運動学などの考え方を授業で教えるために自分も勉強し、学生からの反応にも学びがありますし、今度はコーチとして指導の場でも実践できています。教員という立場をいただいて、自分自身も非常に勉強になっています」

「スポーツには力があって価値があるんだよ」

平野や池江のように、スポーツ科学を学ぶ学生の中には様々な競技で世界を目指している選手がいる。そうした学生たちを指導するひとりとして、澤野は「自分たちが思っている以上に、自分がやっているスポーツには力があって価値があるんだよ」ということを伝えている。

江島とともに日大から富士通に進んだ橋岡優輝(左)にも、スポーツの力と価値を体現してほしいと期待している(撮影・松永早弥香)

「なぜ人はスポーツに感動するのか。やっぱり私は努力を体現しているからだと思うんですよ。とくに(東京オリンピック内定をつかんだ)池江さんの場合はこれまでの苦しさやつらさなどを多くの人が知っていて、結果が分かりやすく示された。その努力を想像するだけでもとんでもないことですよね。だからこそあの言葉(内定直後の会見)に重みもあったし、私も泣けてきました。スポーツ以外であそこまで感動して泣くことはありますか? だからこそスポーツにはとんでもない力や価値があると思っています。自分たちが頑張っていることで、家族や先生、友人が喜んでくれたという経験は誰にもあるはず。そんな力をみんなもっているんだから、さらにその価値を大きくするために自分の目標に向かってまずは頑張ってほしいんです」

競技者は真摯(しんし)に競技と向き合って体現していく。大学で競技を終える人も、そんなスポーツの価値と大学で得た学びを組み合わせて、世の中に分かりやすく伝えていってほしいと願っている。

澤野大地の“原動力”

19年の日本選手権の後、「選手で先生でコーチで大変ですよね」と質問した記者がいたが、澤野はその言葉に被せるように「大丈夫です。大変だと思っていないんで」と答えた。その“原動力”をたずねられての言葉はこうだった。

「棒高跳びが好きだからですね。楽しいです。こんなに震えることはないですよ。朝から緊張で震えていました。でもこの緊張感の中で(5m)41を一発で跳んで、(5m)61でもああいう跳躍ができて。棒高跳びの醍醐味です。スポーツを現役でできるからこそで。でも支えてくださる方がいるから、38歳になった今でもこうして元気に跳べている。そういう方々への感謝を忘れずに、また来年も続けていきたいと思っています」

互いに万全な状態で挑んだ初めての師弟対決は江島(左)が制した(撮影・松永早弥香)

その日本選手権では最後、日大3年生だった江島雅紀(現・富士通)と澤野の一騎打ちになり、江島が5m61を跳んで優勝、澤野は5m51で準優勝だった。後輩で教え子でもある江島とはそれまでも同じ試合に出ることはあったが、互いにベストコンディションで挑めたのはこれが初めてだったという。選手として負けたのは悔しい。でも、江島の活躍は素直にうれしく、ワンツーがとれてよかったなという思いもあった。

4years.のつづき

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