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連載: プロが語る4years.

努力が花開いた最後のインカレ、休部から始まったプロ生活 茨城ロボッツ・平尾充庸3

平尾(中央)にとって最後のインカレで、天理大はインパクトを与えた(写真提供・濱田佳祐)

今回の連載「プロが語る4years.」は、2020-21シーズンにB2リーグプレーオフで2位となった茨城ロボッツの主将・平尾充庸(あつのぶ、32)です。大学時代は天理大学でプレーし、2017年から茨城ロボッツで戦い、Bリーグ開幕以来初となるB1昇格をつかみました。4回連載の3回目は天理大での最後のインカレと、その後に待ち受けていたプロ選手としての苦難の日々についてです。

最後のインカレは痛み止めの薬を飲みながら

大学最後の秋を迎えた平尾はけがした足と腰の痛みに苦しんでいた。満足な状態で戦えなかった関西大学リーグ戦は京都産業大学に大きく後れを取って2位で終了。インカレが目前に迫った中でも痛みは治まらず、痛み止めの薬を飲みながらの戦いを余儀なくされた。

「薬を飲んでも動き出しはすごく痛い。体を動かし続ければアドレナリンと効き始めた薬のおかげで痛みが薄らぐんですが、試合が終わったとたん激痛がぶり返す。インカレ中はまさにその繰り返しでした」

しかし、2011年のインカレの舞台で平尾が抱えた痛みに気づく者はどれほどいただろう。今思い返しても、浮かんでくるのは全力でコートを走る力強い姿ばかりだ。

関東の強豪校を差し置いて、天理大が受賞ラッシュ

天理大の快進撃は初戦(対九州東海大学)の100点ゲームから始まった。2回戦で筑波大学に逆転勝利すると、続く準々決勝で遠藤祐亮(現・宇都宮ブレックス)や岸本隆一(現・琉球ゴールデンキングス)といった点取り屋を擁する大東文化大学と対戦。リードが二転三転するこの試合は大会随一の白熱戦となったが、ドラマは最後の最後に待っていた。

大東大が1点リードで迎えた天理大のラストオフェンス。残り1秒、パスを受けた平尾が一瞬の躊躇(ちゅうちょ)も見せず放ったシュートはまっすぐリングに吸い込まれ、63-62の劇的勝利。辻直人(現・広島ドラゴンフライズ)や比江島慎(現・宇都宮ブレックス)を中心に関東リーグ1位に輝いた青山学院大学との準決勝は力及ばず大敗するも、3位決定戦では関東リーグ3位の拓殖大学を撃破。関西勢として20年ぶりのメダルを奪取した。

平尾(右下)をはじめ、多くの仲間が受賞された(写真提供・濱田佳祐)

更に個人賞では見事な天理大ラッシュ。優秀選手賞、得点王、MIP賞をトリプル受賞した平尾にはじまり、同期の大谷拓哉の3ポイント王、劉瑾(リュウ・ジン、現・西宮ストークス)のリバウンドと5部門にその名を刻んだことは、この年の天理大の「本物の強さ」を示していたと言える。中でも平尾が手にしたMIP賞は大会で最も印象に残った選手に贈られるもので、大会に訪れた観客の投票によって決まる。関東のスター選手たちを抑えて圧倒的な票を集めた平尾は、この年のインカレで1番インパクトを残し、1番愛された選手だったと言えるだろう。

「いや、いや、あの時は自分がMIP賞なんかもらっちゃっていいのかと思いました。ほんとに俺でいいの?みたいな(笑)。もちろんうれしかったですよ。でも1番うれしかったのはチームが3位になったこと。天理大での最後の1年は、僕たち4年生を中心にみんなで努力をしてチームを作ってきたという意識があったので、その努力がああやってインカレで形になったことは本当にうれしかったです。最高でしたね。個人的にはベストコンディションではなかったですけど、自分なりに精いっぱい頑張ったと思うし、精いっぱい頑張れたことは次のステップに向かう自信にもなりました。僕の中で一生忘れられない大会です」

念願のプロ選手直後、「休部」を新聞で知った

大学最後の大会で文字通り有終の美を飾った平尾は、バスケ選手として次なる扉を開けることになる。バスケ界の名門・パナソニックトライアンズへの入団だ。だが、希望に満ちて開けた扉の向こうで待っていたのは衝撃的な出来事。業績不振によりバスケットボール部が休部になると知ったのは、入団後間もなくのことだった。

「僕たちがそのニュースを最初に知ったのは新聞の記事でした。それまでも会社の経営が苦しいという話は聞いていましたが、会社からではなく新聞でその事実を知ることになろうとは……。これから自分たちはどうなるんだろうという不安も含めてものすごくショックでした。ただそういった状況の下でも、続くリーグ戦は戦っていかなければなりません。色々大変なことはいっぱいありましたが、それを乗り越えて前半戦を終え、翌年の天皇杯で優勝できたことはほんとに良かったと思ってます。まあできることならそのままリーグ優勝も勝ち取りたかったけど、そのころには休部後の移籍はどうするとか、それぞれ向き合わなきゃならない問題もありましたから、現実的には難しいところがあったかもしれません。けどやっぱり、トライアンズとして最後のリーグを優勝して終わりたかった。先輩たちと笑って終わりたかったなという気持ちは今でもあります」

トライアンズの最後を優勝で飾れなかった悔しさは、今も平尾の胸にある(写真提供・B.LEAGUE)

その後、平尾は声をかけてもらった東芝ブレイブサンダース神奈川(現・川崎ブレイブサンダース)へ移籍。篠山竜青、山下泰弘(現・島根スサノオマジック)に次ぐ3番手のポイントガードとしてコートに立った。

「在籍したのは1年間でしたが、篠山竜青さんや山下泰弘さんなどポイントガードの先輩からはいろんな刺激を受けることができました。だけど、自分がチームにどれだけ貢献できたかと考えれば?マークが付きます。やはり絶対的司令塔の竜青さんとそれをバックアップする山下さんの存在は大きくて、簡単に出番は回ってこない。使ってもらえた時にはそれなりのプレーもできていたと思いますが、なかなか伸びないプレータイムに悩むこともありました」

大野さんの夢「田舎にいる母ちゃんを笑顔にさせる」に触れ

大野篤史さん(現・千葉ジェッツヘッドコーチ)から1本の電話が入ったのはそんな時だった。「来年立ち上げる広島ドラゴンフライズという新チームにくる気はないかという話でした」 

広島のヘッドコーチには佐古賢一さん、アシスタントコーチには大野さんが就任するという。平尾にとって大野さんはパナソニック時代に世話になったアシスタントコーチ。指導者としても人間としても尊敬できる人物だった。

「パナソニックに入団して間もないころ、篤史さんから『おまえの目標はなんだ?』と聞かれたことがあります。それまでの目標はプロのバスケ選手になることだったから、正直、それが叶(かな)った後の目標がちょっと思いつかなかったんですね。そしたら篤史さんが笑って、『俺の今の目標は田舎にいる母ちゃんを笑顔にさせることなんだよ』と言われたんです。『母ちゃんに篤史は頑張ってるなあ思ってもらえることが俺の目標。だからおまえもどんなことでもいいから目標を定めるといいよ。目標があればより頑張れるから』と。その言葉はずっと自分の中にあって、ひとつの目標を定めて、叶ったらまた新たな目標を定めて……というのを繰り返してやってきた気がします。思えばその出発点は篤史さんの言葉なんですね。その篤史さんが自分を誘ってくれたことがすごくうれしかったです」

広島への移籍を決意するのに時間はかからなかった。「日本を代表するポイントガードだった佐古さんがヘッドコーチを務めるチームでポイントガードとしてステップアップしたい」。それが平尾の新たな目標となった。

プロが語る4years.

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