バスケ

連載:リーダーたちの4years.

メディアで「越えられない一線」を実感、沖縄の熱量に触れ 琉球・木村達郎社長3

NHK情報ネットワークで木村社長(左)はシドニーオリンピックの現場を経験した(写真は本人提供)

Bリーグの島田慎二チェアマンが「スーパーマン」と表現するのが、琉球ゴールデンキングスの木村達郎社長(48)です。中学生の時にバスケットボールと出会い、筑波大学を経てエマーソン大学で修士課程を修了。企業でスポーツ映像制作に携わった後、仲間とともに琉球ゴールデンキングスを立ち上げました。連載「リーダーたちの4years.」ではそんな木村社長の大学時代も含めて紹介します。4回連載の3回目はアメリカ留学から帰国し、メディアで働いていた木村社長が琉球ゴールデンキングスを立ち上げた話です。

スポーツ報道の現場で感じた限界

修士課程を修めて帰国し、木村社長はNHK情報ネットワークでスポーツ映像制作に携わった。バスケだけでなく野球やサッカー、相撲など、様々なスポーツの現場に出向いたが、その中でも2000年シドニーオリンピックのことは鮮明に覚えている。「高橋尚子さんに金メダルが授与された、あの10万人のスタジアムにいました。1つの空間に世界中の人がいるってすごいことですよね」。まだ高校生だった北島康介さんの競技の際、隣には後に初代スポーツ庁長官となる鈴木大地さんがおり、「今でも会うと『木村くん』と言われます」と木村社長は明かす。

各競技の第一線で活躍するスター選手を報道する一方で、いわゆるマイナー競技の報道をする機会にも恵まれた。その会場には観客は多くない。「どう工夫して広く一般にお届けするか、ルールを分かりやすく伝えることも必要だなと思いました」。その工夫は後に、まだマイナースポーツだったバスケの魅力を伝え、立ち上がったばかりの琉球ゴールデンキングスの魅力を伝える際にも生きたという。

バスケも含めて様々なスポーツに触れられる仕事は、木村社長にとって刺激的ではあった。しかしどうしても越えられない一線があるように感じたという。

「メディア側からスポーツを盛り上げたいと思ってやってきましたけど、あくまでも我々はスポーツというコンテンツを伝えるだけ。これ以上やろうとしたら、ある種の捏造(ねつぞう)になってしまうような感覚がありました。これ以上面白くしようとしたところで、本当にバスケットは人気になるのかな。だったら媒体側よりもコンテンツ側がいいなと思い始め、うだうださまよっていた時がありました」

次に何をすると明確に決める前に、木村社長は退職を申し出た。

バスケの盛り上がりと人々の地元愛で沖縄一択

そして05年、bjリーグ(16年にNBLと統合してBリーグへ変更)が開幕。当時の木村社長はその報道を見聞きした程度だったという。後にともに琉球を立ち上げることになる仲間に誘われてbjリーグの試合を見に行き、高揚感をもって新規チーム創設へと動き始めた。「プロ野球のように成熟するとなかなか新規チームは入れないですから。自分が大好きなバスケットがチームを募集しているとか、この先も人生の巡り合わせであるのかなと思って、とにかくやってみようという気持ちでした」

地元のものを大切にする沖縄の人々の温かさもまた、拠点を沖縄にした理由の1つだった(写真提供・B.LEAGUE)

実業団チームは地域名ではなく、企業名を名乗っているのが当たり前だった時代だ。bjリーグは地域名をチーム名に取り入れているところも木村社長には新鮮で、地域に根ざしたチームづくりへの思いが一気に大きくなった。東京出身者として東京にチームを作れたらという思いはあったが、東京にはすでにチームがあった。だったらと、全国をまっさらにして考えた。候補に挙がったのは神奈川、福岡、沖縄。その中で最も木村社長の心にあったのは沖縄だったという。

「私はバスケットをしていたので沖縄の盛り上がりを知っていたし、改めて行ってみて沖縄の良さも分かりました。沖縄の方々は地元のものを大切にする。大切にしているから愛していますし、応援しますし、地元の活躍を心から喜んで、無関心ではいられない。そんなところも大きな理由でした」

改めて全国と沖縄の人口推計や人口密度、バスケ競技者数など客観的なデータを調べ直し、最終的に拠点を沖縄に定めた。

bjリーグ初優勝の熱気に触れ、アリーナの必要性を実感

06年3月に「沖縄にプロバスケを!」事務局を立ち上げ、同年10月にbjリーグ新規参入が正式に決定。組織は「沖縄バスケットボール株式会社」に代わった。地元に愛されるチームを目指し、チーム名を一般公募することにした。寄せられた161案の中から3案に絞り、投票で「琉球ゴールデンキングス」に定まった。

07年にbjリーグに参戦。09年にはbjリーグ4代目王座をかけて東京アパッチとのファイナルを勝ち抜き、名前の通りに“キング”となった。歓喜の輪の中心で、木村社長は選手やスタッフたちの手で人生初の胴上げを経験した。

その後、琉球はbjリーグを4度制し、16年にはbjリーグ最多優勝クラブとして、NBLのシーズンを通した年間チャンピオンで過去最高勝率をマークしたアルバルク東京とのBリーグ開幕戦を飾った。Bリーグは昨年、新型コロナウイルス感染症拡大を受けて初めてリーグ中止となったが、2020-21シーズンはコロナ対策をした上で開幕。今年6月1日、千葉ジェッツふなばしの初優勝でシーズンを終えた。西地区を制した琉球はその千葉とセミファイナルで対戦。4月に開業されたばかりの沖縄アリーナが舞台だった。

千葉とのセミファイナルはコロナ対策で歓声こそあげられなかったが、ブースターは表現豊かな拍手で選手たちの背中を押した(写真提供・B.LEAGUE)

それまで琉球が本拠地としてきた沖縄市体育館の収容人数は約3000人だったが、沖縄アリーナは約8000人(バスケ使用時)まで収容できる。木村社長がアリーナの必要性を感じたのは、bjリーグを初制覇した09年だったという。増えた観客に対応することだけが目的ではない。木村社長がアメリカ留学中に見た、誰もがワクワクできるようなあの空間を作りたいというのが一番の願いだった。



リーダーたちの4years.

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