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連載:リーダーたちの4years.

バスケのため筑波大へ、初日に「大学でやめるんだな」と悟った 琉球・木村達郎社長1

木村社長は沖縄アリーナ建設にあたり、自ら設計図も引いて構想を膨らませた(写真提供・琉球ゴールデンキングス)

Bリーグの島田慎二チェアマンが「スーパーマン」と表現するのが、琉球ゴールデンキングスの木村達郎社長(48)です。中学生の時にバスケットボールと出会い、筑波大学を経てエマーソン大学で修士課程を修了。企業でスポーツ映像制作に携わった後、仲間とともに琉球ゴールデンキングスを立ち上げました。連載「リーダーたちの4years.」ではそんな木村社長の大学時代も含めて紹介します。4回連載の初回は、バスケとの出会いと筑波大時代についてです。

友達からの誘いで始めたバスケにどっぷり

全国屈指の公立進学校である戸山高校(東京)から筑波大に進学した木村社長。文武両道を貫いてきたのでは?と質問を投げかけると、木村社長はニコリとほほえむ。「進学校だけど勉強していなくて、ビリではなかったんですが成績が悪かったんです。バスケットばっかり。だから両立していたかは分からないな」

鉢山中学校(東京)でバスケと出会うが、当初はどちらかというと「仕方なく」という表現の方がしっくりくるという。最初はバレーボール部に入ろうと考えていたが、当時のバレー部は全国で上位争いをするほどの強豪チームで、入部を躊躇(ちゅうちょ)してしまった。そんな中、長身の木村社長に目を付けたバスケ部の同級生から「とにかくあいつを入れよう!」と熱烈に勧誘を受け、バスケ部に入部することになった。

当時は今のようなプロチームが確立されていたわけではなく、漫画『SLAM DUNK』もまだこの世になかった頃だ。木村社長もバスケに対してマイナースポーツの印象があったものの、仲のいい同級生が多くいる部にスッと馴染み、やってみると素直に楽しいと思えたという。

木村社長は中学生の時にバスケと出会い、どんどんバスケにのめり込んでいった(写真は本人提供)

高校でバスケをするのは既定路線だった。バスケ中心の生活を続け、3年生になってからは主将に就任。そして最後のインターハイがかかった都大会、上位3校までがインターハイに進む中、木村社長が率いる戸山は4位だった。悔しい気持ちはあれど、全国にあと一歩のところまでたどり着け、それまでの頑張りが報われたように感じた。

筑波大のレベルの高さを知り、色々な可能性を考え

筑波大に進んだのは「もう少し上のレベルでバスケがしたい」というのが一番の理由だった。加えて、教員免許を取得してゆくゆくは指導者としてバスケに関われたらという思いもあった。しかし、練習初日に現実を突きつけられた。「みんなうまいし、体格も違う。自分はバスケットを大学でやめるんだなと悟りました」。それでもなんとか練習に食らいつき、バスケへの情熱を持って日々を過ごしていたが、3年生になって進路を考え始めるようになってから、少し立ち止まった。

自分は本当に、選手やコーチとしてバスケの現場でやり続けるのだろうか。

そう思い初めてからは色々な可能性を考えた。「留学もしたいな」という思いから英会話に通い始め、スポーツ界を裏側から盛り上げる仕事を思い描いてからは、教員免許を取ることをやめた。木村社長は「4years.さんには申し訳ないけど、僕は大学スポーツに熱中した人間ではないんです」と触れた上で、こう話してくれた。

「でも人生として、それはすごくよかったと思う。自分のプレーがもうちょっと通じていたら、もっと夢中になってがむしゃらになって、上でやりたいなと思ったかもしれない。でも筑波に行ってから、バスケ部もそうだけどバレー部とか、特にサッカー部にはフル代表に入るような選手もいて、横を見渡すると超一流ばっかりでした。だから現場よりもスポーツを取り巻く環境で働きたいなと気づかせてもらいましたし、体育専門学群に行って良かったなって思っていますよ」

筑波大で木村社長はバスケの現場以外の道を模索した(写真は本人提供)

先を行くアメリカで学びたい

「スポーツを取り巻く環境」とは言えど、やはりバスケへの情熱は人一倍だった。木村社長が高校生だった1990年ほどから、衛星放送を通じてNBAなどアメリカのスポーツを日本で見る機会に恵まれた。そこに広がる圧倒的な世界。木村社長の目から見て、日本のバスケはまだまだマイナースポーツから抜け出せていないように感じていた。「スポーツとスポーツビジネスの本場に行って勉強したい。アメリカには自分がまだ知らないことや経験したことがないことがいっぱいあるんだろうな、と思っていましたし、日本のバスケットを取り巻く環境を変えたいと思っていました」

木村社長は筑波大卒業後、ボストンにあるエマーソン大学マスコミ研究科に進んだ。ボストンにはNBAのボストン・セルティックスがある。木村社長自身も衛星放送を通じてセルティックスに魅了され、セルティックスをきっかけにしてボストンの町を知ることにはなったが、大学の願書は他のエリアの大学にも出していた。その中でボストンの大学に進むことになったのは「巡り合わせ」だと話す。そんな1990年代のアメリカは、木村社長を打ちのめすほどの刺激をもたらしてくれた。



リーダーたちの4years.

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