クラブへの最大の貢献を考え、引退を決断 おこしやす京都AC社長・添田隆司3
企業のリーダーたちの大学時代を振り返る連載「リーダーたちの4years.」、今回は東京大学卒業後にJ3だった藤枝MYFCに進み、史上2人目の東大卒Jリーガーとなった添田隆司さん(27)です。2017年に現役を引退し、翌18年にスポーツXの取締役と、関西リーグ1部に所属するおこしやす京都ACの代表取締役社長に就任しました。4回連載の3回目は藤枝MYFCとアミティエSC京都(現・おこしやす京都AC)での選手兼社員時代についてです。
午前は選手として、午後は社員として
15年4月、藤枝MYFCに選手兼社員として入団した添田さんは、午前中は選手として練習し、昼食をとった後、午後からはクラブの事業計画や経営計画の作成に携わり、新規事業の立ち上げや地域貢献活動など、様々な業務を担った。大人のサッカー教室は添田さんが立ち上げたプロジェクトのひとつ。また地域貢献活動の一環として、ホームタウンである藤枝・志太榛原地域の学童保育を訪問し、子どもたちと一緒にサッカーをして交流を深めることにも取り組んでいた。
「MCもしていたので、選手が私ひとりの時は『今日は添田選手が来ました! よろしくお願いします』と言っていましたね(笑)。子どもたちに喜んでもらえ、最後にはサインの行列もできていました。サッカー選手は子どもたちの夢や希望になることなんだなと実感しましたし、サッカー選手やサッカーが社会に与えるインパクトを選手として感じられたのはいい経験でした」
「センスがある選手にだけは絶対負けたくない」
一方、選手としては「自分は圧倒的にど下手」と感じながら入団したこともあり、「うまくない中でどうやって試合に出るか」を日々の練習から考えていた。東大ではチームを牽引(けんいん)する選手として活躍していたが、高校までを振り返ると、必ずしも試合に出られるという状況ではなかった。そうした経験があったからこそ、ステージがプロに上がっても挫折することなく挑み続けることができた。
学生時代から添田さんが思い続けてきたことがある。「センスがある選手にだけは絶対負けたくない。そいつらだけには下手でもいいから勝ちたい」。頭を使って戦術的にサッカーをすることや、ボールを止めたり蹴ったりという細かい技術など、自分に足りないものを痛感させられた。それでも走ることに関しては“中の上”だと感じたため、それを“上”に引き上げるトレーニングにも取り組み、自分の強みを生かしたサッカーにも目を向けた。1年目は通算8試合に出場。2年目以降は出場する機会が減っていたが、「まだまだ成長できる」という手応えはあった。
他の選手とは違い、平日には練習と仕事をこなし、週末には試合がある日々。車の免許をとるまでは、自転車で30分かけて練習場と事務所を行き来していたという。試合に出るためには練習の中で自分をアピールしなければいけない。毎日が気の抜けない勝負の連続だ。つらいと感じることはなかったのかとたずねると、「それが当たり前になっていましたので」と添田さんはさらりと答えた。学生のころから勉強とサッカーの両立を「そんなもんだ」と思ってやってきた添田さんだからこその感覚だろう。
チームがJFL、更にJリーグで活躍するために決断
3年目の17年8月、添田さんは藤枝MYFCから当時同社と提携関係にあったアミティエSC京都へ移籍した。関西リーグ1部に所属するアミティエSC京都はJFL昇格、その先にJリーグ加盟という大きな目標を掲げている。添田さんは藤枝MYFCの仕事も一部抱えた状況で軸足をアミティエSC京都に移し、また選手兼社員として新たなスタートを切った。
その17年にアミティエSC京都は関西リーグ1部で5年ぶり2度目の優勝を果たし、全国地域サッカーチャンピオンズリーグに出場。4位でJFL昇格を逃したが、関西社会人サッカー連盟主催のKSLカップでは初優勝を飾るなど、チームにとって飛躍の年となった。
18年シーズンを前にして、クラブからは選手としての活躍も期待されていた。添田さんにもJFL昇格のために選手としてクラブに貢献したいという思いがあり、まだまだ成長できるという感覚があった。しかし長い目で見ると、それから先は現実的に厳しいように感じられたという。クラブへの最大の貢献を考えるなら、選手としてではなくスタッフとしてチームを支える側にまわった方がいいのではないか。目の前でJFL昇格を逃したチャンピオンズリーグの悔しさはずっと胸にあった。しかしもろもろ天秤にかけて考えた結果、このタイミングで引退し、スタッフとしてチームを上に上げたいと決断した。
悔しい思いをする方が多かった、それでも
17年12月、24歳の時に現役引退を発表。プロとしては藤枝MYFC時代に通算10試合に出場している。これまでのサッカー人生を振り返ると、成功体験よりも悔しい思いをすることの方が多かったかもしれない。
「サッカーを始めた保育園の時に戻って、あの時こうしていたらJ2くらいはいけたんじゃないか、と思うことはあります。でも20年におよぶサッカー人生の中で、その時々の自分の視野の中でやれることは結構できたんじゃないかなと思いました。元々、あまり自分にはセンスがないなと思っていましたから」
自分に伸びしろも感じていた中での引退だったが、苦しみながらも戦ってきたこれまでの自分を受け入れることができた。
このタイミングでもうひとつ、「全く新しいことを始める」という選択肢もあった。その道を選ばなかった理由として、チームへの愛着、そしてサッカーへの愛着があったのは間違いないだろう。