サッカー

連載:4years.のつづき

「東大卒Jリーガー」は恐怖も感じた決断だった おこしやす京都AC社長・添田隆司2

サッカーに向き合う最後の4年間と心に決め、添田さんはア式蹴球部に入部した(写真は全て本人提供)

今回の連載「4years.のつづき」は、東京大学卒業後にJ3だった藤枝MYFCに進み、史上2人目の東大卒Jリーガーとなった添田隆司さん(27)です。2017年に現役を引退し、翌18年にスポーツXの取締役と、関西リーグ1部に所属するおこしやす京都ACの代表取締役社長に就任しました。4回連載の2回目は東大時代、そして卒業目前で訪れた転機についてです。

高3の11月に引退、そこから猛勉強で東大合格 おこしやす京都AC社長・添田隆司1
塾もいかず現役で東大へ、入学式で東大初のJリーガーになると決意した 久木田紳吾1

考えるサッカーの必要性を痛感

「1番を目指す」という思いから高2の冬に東大受験を志し、最後の追い込みで東大文科二類に現役合格を果たした添田さんは、サッカー人生の最後を飾る4年間と心に決め、ア式蹴球部に入部した。添田さんが東大に入学した11年は、東大ア式蹴球部の先輩である久木田紳吾さんがファジアーノ岡山FC入団して「東大初のJリーガー」となった年だった。部室には久木田さんの記事が貼ってあった。しかしプロを目指していなかった添田さんは、「そういう人もいるんだな」という程度に受け止めていたという。

当時の東大は関東リーグの3部にあたる東京都リーグ1部に所属していた。チームの目標は1977年に降格した関東リーグに復帰すること。添田さんは1年生の時から試合に出場し、その年にチームは1部で優勝。悲願の関東リーグまであと一歩のところまで迫った。

練習は週5日、2チーム体制で行っていた。真面目にサッカーと向き合っている選手たちを目のあたりにし、「思っていたよりレベルが高いな」と感じた。その一方で、目的を達成するためにどうしたらいいのか、試合に出るために何が必要なのか、考えながらサッカーをする意識が低い印象を受けた。公式戦に出ている選手の大半は、高校時代は進学校の中でエース的存在だったような選手だ。その意味ではチーム内で8番手の選手だった自分のように、どう試合に出るか、どう活躍するかを考えてきた選手は少数のように思えた。

経済学の原書を読みあさり、理論を学ぶ

東大ではみな、最初の2年間は駒場キャンパスにある教養学部に所属して幅広いジャンルを学び、3年目からそれぞれの専門へ分かれる。添田さんは経済学そのものへの興味に加え、社会人になった時に役立つのではという思いから経済学部に進んだ。

授業では経営管理や経営戦略などを積極的に学び、ゼミや卒業論文は必須ではなかったが、3年生の時には経済原論や環境経済学の理論を学ぶゼミに入っていた。「名著と呼ばれる本には、どの時代にも通じる魅力がある」と考え、様々な経済学の原書に手を伸ばした。「学生の内にもっとたくさんの本を読んでおけばよかったなと思いはしますけど、その時にインプットできたことが今、知識・知見として役に立っているのかなと思います」

3年生の秋には周りの学生たちと同様に就活を始め、4年生になった14年4月に採用選考が始まってからはコンサルや金融などの企業に受けたが、早々に三井物産から内定をもらったことで就活を終了。残りの学生時代を勉強とサッカーに捧げた。

最上級生になり、添田さん(上段右から2人目)は主将としてチームを牽引した

ラストイヤーは主将としてチームを支え、チーム内の縦のつながりを密にし、下級生も意見がしやすい環境を整えようと苦心してきた。しかし僅差で負ける試合が続き、勝ち切れないもどかしさをがずっと胸にあった。リーグ戦は4勝3分11敗で9位。2部降格となった。「最後の試合はもう、負けたことしか覚えていないです」。抜本的な改革の必要性を痛感させられたが、これからの東大ア式蹴球部は後輩たちに託した。

東大ア式蹴球部の主将に託された“ある構想”

9月にア式蹴球部を引退。三井物産の内定式にも出席し、あとは卒業を待つばかりとなった12月、3年生の時までア式蹴球部のヘッドコーチ(HC)だった林健太郎さん(現・ヴィッセル神戸HC)から「藤枝MYFCから練習にこないかと声がかかっているぞ」と言われて驚いた。林さんは藤枝MYFC監督だった大石篤人さん(現・大阪学院大学コーチ)と駒澤大学時代の先輩・後輩という間柄ではあったが、事の発端は藤枝MYFCの代表取締役社長だった小山淳さん(現・スポーツX代表取締役社長)の“ある構想”だった。

藤枝MYFCは小山さんが静岡・藤枝を拠点にして09年に立ち上げ、5年間でJリーグ入り(J3)を果たしたチームだ。小山さんは2つの理由から東大ア式蹴球部の主将をとりたいと考えていた。ひとつは勉強を積んで東大まで進み、主将を務めるまでやり抜いた選手であれば、Jリーグのような高いレベルで育成した時の伸びしろは大きいのではないか、という仮説を実証したかったから。

もうひとつは、将来的に日本のスポーツビジネスを担うような人になってほしいという願いからだった。日本のスポーツ界をより良くするためには若い力が必要であり、それを東大ア式蹴球部というブランドをもった人物が担ってくれるのであれば、スポーツ業界におけるひとつのエポックメーキングになるのではないか。そんな思いから、小山さんは東大ア式蹴球部の添田さんの獲得に動いた。

清水の舞台から飛び降りるくらいの覚悟で決断

しかし添田さんは藤枝MYFCへの練習参加に対して、「J3のレベルはどんなもんなんだろう」という興味本位の気持ちもあったという。その14年はJ3が設立されたばかりだった。「練習参加の段階では、失礼な話ですが、ある種の“観光気分”もあったかと思います」。プロのサッカー選手になる夢は中2の時に砕かれ、大学でサッカーを終えるつもりだった。藤枝MYFCで経験した練習はこれまでとは明らかにレベルが異なり、もしこの世界で戦うことになったら相当つらい目に遭うことは容易に想像できた。

小山さんから選手兼社員としてこないかと誘われ、まさかそんな話をもらえると思ってもいなかった添田さんはまた驚いた。「2週間だけ期限をあげるから考えてきて」と言われ、悩みに悩んだ。「大手の三井物産に就職したらある程度の先行きは見え、安定した生活も送れるんだろうなと思いました。もしJリーガーの道を選んだら圧倒的に下手な状況から始まるし、つらい思いをするのは嫌だなと思ったんです。でもどれだけ自分がサッカー選手として成長できるのか挑戦してみたいという気持ちもあって……。決断に対する恐怖感も感じていました」

添田さん(左)は挑戦したいという思いから、プロの世界に飛び出すことを決意した

最終的に添田さんが選んだのは、藤枝MYFCで選手兼社員としての道。「最後の最後まで五分五分でした。最後はもう、えいって。誘ってくださった藤枝MYFCに失礼な言い方ではありますけど、当時は本当に清水の舞台から飛び降りるくらいの覚悟で決めました」。それまでの人生を振り返ると、敷かれたレールの上を歩き、選択といっても枝分かれしたレールを進んできたようなものだったという。この決断で添田さんは初めてレールを外れた。

「ど下手」から始まったJリーガー生活

添田さんは基本的に自分の人生に関する決断をする時は人に相談しないという。誰かのせいにするのではなく、自分の選択に自分で責任をもちたいというのが理由だ。藤枝MYFCに進むことを両親に伝えると、「ああそうか」というリアクションが返ってきた。しかし後々聞くと、両親は三井物産に勤めている知人にも話を聞きながら、息子がその三井物産に入ることを楽しみにしていたそうだ。「そういう意味では、うちの親はちょっと残念がっていたのかもしれませんね」と添田さんは申し訳なさそうに口にした。

14年の年末に藤枝MYFCへ入団の意向を伝え、15年1月にはすぐにチームに合流した。「史上2人目の東大卒Jリーガー」の誕生に多くのメディアが駆けつけてくれたが、それに応える添田さんは複雑な心境だった。「東大では相当うまい方だと思いましたけど、J3のカテゴリーの中にいると自分はど下手だと思っていたので、あまりとりあげないでほしいな、でもそういうもんなんだろうな、という鬱々(うつうつ)とした気持ちはありました」

慣れない環境に戸惑いながらも、15年4月、添田さんは藤枝MYFCで新たな道を歩み始めた。

4years.のつづき

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