ラグビーも農学部の勉強もやりきった サッポロビール・髙島英也社長(上)
新たに、企業のリーダーたちの大学時代を振り返る連載「リーダーたちの4years.」をスタートします。第1回はサッポロビール社長の髙島英也(ひでや)さん(60)です。東北大農学部に入学すると同時にラグビーを始め、研究で多忙な日々を過ごしながら、強くなるために努力を続けてきました。2回の連載の前編は、ラグビーと学業の両立についてです。
ラグビーW杯はプレーヤー目線で観戦
初めて日本で開催されたラグビーのワールドカップ。日本代表が初めて決勝トーナメントに進出したこともあり、大いに盛り上がった。元ラガーマンにはかつての日々を思い出し、血が騒いだ人も多かっただろう。髙島さんもその一人だ。
「私もプレーヤーとして見てました。どのくらいのパワーでボールをもぎ取ってるんだろうとイメージしながら。体に力が入ってしまいましたね」
決勝トーナメント進出を決めたスコットランド戦は試合会場で観戦し、稲垣啓太がトライを決めたときは涙がこみ上げてきた。チームの最重量級であるPR(プロップ)の選手がトライするのを見て、ラグビーの変化をつくづく感じたという。「いまはどのポジションの選手も走れるし、パスもできる。私が選手のころとはずいぶん変わりました」と髙島さん。日本選手のオフロードパス(タックルを受けながら出すパス)の技術にも目を見張った。
髙島さんがラグビーを始めたのは東北大に入学してから。「とにかく体を強くしたい。たくましくなりたい」という思いからのスタートだった。県立福島高校時代はスポーツとは無縁だった。何しろ通学に自転車で片道45分もかかったからだ。やむなく運動部をあきらめたが、半年間だけ合唱部には所属していた。福島高の合唱部はレベルが高く、髙島さんが2年生のときには全日本合唱コンクールで金賞を受賞したほど。サッポロビールの北海道本部長時代には、札幌市内の本格的な合唱団に入っていた。「いまも歌うのは好きなんです」とほほえむ。
体を大きくするため白米を毎食2合
東北大に入学した当時は身長180cm、体重は67kg。ひょろっとした体形だったが、高校時代の自転車通学で、足腰の強さと心肺機能には自信があった。ラグビーはもともと好きで、よく父と一緒に試合をテレビ観戦していた。いざやってみると、想像以上に難しいスポーツということがすぐに分かった。入部1日目のことは、いまもよく覚えている。先輩が高く蹴り上げたボールを2人で奪い合う練習で、髙島さんはまったくボールが捕れなかった。「体を入れて相手を弾き飛ばさなければキャッチできないことも知らなかった。本当の初心者でしたね」と、当時を振り返る。
一からラグビーを覚える一方で、ラガーマンの体になることも求められた。農学部の授業で体重を増やすにはタンパク質と同じぐらい炭水化物が大事だと学ぶと、ひたすら白米を食べた。
「下宿先で自炊してたんですけど、実家から米を送ってもらって、毎食2合は食べてました。その上、友だちを招いたときは一升(約1.5kg)炊いてたので、すぐ米がなくなってしまいまして。米がないときは、パンの耳で代用しました。朝早いと、焼き立てを1㎏5円で売ってる店が近くにあったんです」
もちろんタンパク質も必要なので、こちらはもっぱら生卵で摂取したという。たくさん食べるだけでなく、当時はいまほど浸透していなかったウエイトトレーニングにも精を出した。最終的にはベンチプレスで100kgを上げられるようになったという。冬場は自主練習だったため、髙島さんはボディビル部のトレーニングに参加した。懸垂40回を4セットといった高負荷のメニューで鍛えた。
食事、ラグビー部の練習、そしてウエイトという三つを積み重ねたことで、広背(こうはい)筋や大殿(だいでん)筋といった筋肉が太くなっていった。体が大きくなるとともに、プレースタイルも変わっていった。ダッシュはより速く、タックルはより強く。「練習と毎日の積み重ねは(自分を)裏切らない、ということなんでしょうね」と、しみじみと振り返った。
ラグビーと学業の両立に苦しんで
こうした努力が実り、3年生でLO(ロック)のレギュラーとなり、フォワードのサブリーダーにもなった。一方で3年生からは学業との両立という難題が重くのしかかってきた。髙島さんは農学部で農業化学を専攻していた。ごく簡単にいえば、ばらばらにした植物の細胞に紫外線などで変異を起こさせ、生き残った細胞から再分化させた植物体の形質変化を研究していた。
「両立は本当に大変でした。そもそも理系は3年生になると実験や研究が多くなるので、周りの人からも『体育会でラグビーを続けるのは難しい』『先生がやらせてくれない』ということは聞いてました。それでも私はラグビーがやりたかったんです。だからラグビーをやらせてくれる先生を選びました(笑)。その先生はラグビーとの両立に理解を示してくれましたけど、一つだけ約束事として『提出物は期限の3日前に』と言い渡されました」
初心者で始めたラグビーがそうであったように、実験もまた厳しかった。データだけでなく、導いたプロセスや自分がどう実験に関わったかも評価の対象になった。試合があっても実験を放り出すわけにはいかず、試合後に学校へ戻るとすぐ研究室に向かった。
とりわけ苦労したのが卒論だった。髙島さんは4年生のとき、「全国教育系大学ラグビーフットボール大会」(1998年度で終了)に出場した。本来は卒論の追い込み期である年末年始と、その遠征が重なった。結局、論文そのものは何とか間に合ったが、卒業式当日を迎えても、膨大(ぼうだい)な資料の整理は終わらなかった。
先生から「資料は後から送ってくれればいい」と言われた髙島さんは、サッポロビール入社後も仕事から帰ると独身寮で作業を続けた。ようやくすべてが整ったのは、5月になってから。段ボール1箱分の資料を先生のもとに送ると、すぐにお礼の手紙が届いた。
「手紙には『本当に後から送ってくれたのは君が初めてだ。どうもありがとう』と綴(つづ)られてありました」
この先生はのちに、髙島さん夫妻の仲人をつとめてくれた。
大学時代はラグビーも学業も最後までやりきった。この経験は社会に出てから生かされる。