大東文化大学で陸上を始めて箱根駅伝を走った清野篤さん、消防士12年目の今!
今回の「M高史の陸上まるかじり」は清野篤(きよの・あつし)さんのお話です。高校まではサッカー部で、全国大会にも出場。大東文化大学で陸上を始め、準部員からのスタートながら3年連続で箱根駅伝に出場。大学卒業後は消防士として働かれています。
高校まではサッカー部
埼玉県出身の清野さん。小さい時から運動が好き、特にサッカーが大好きな少年でした。中学ではサッカー部で県大会に出場。清野さんの運動神経はサッカーだけにとどまらず、硬式テニスでも県大会に出場しました。
高校はサッカーの名門・西武台高校へ。部員も同級生だけで80人ほど。全員合わせると約150人という大所帯でした。「3kmとか5kmを走る練習で上位10名が試合に出ていいよと言われて、毎日ほぼ全力で走っていましたね! 自分をアピールするために走っていました。メンバーに入ってからも負けず嫌いだったので一番の座は譲りたくないと走っていました」と健脚を活かしてメンバー入り。全国レベルの大会も経験しました。
ただ、全国の舞台を経験して「本当に上手い人は上手いんですよ。自分は走りで頑張ったから出させてもらいましたが、サッカーはうまくなかったです(笑)。周りのレベルが高すぎて大学でサッカーを続けたいとは思えなくなりましたね」。それでも「いま思うとサッカーを通して、人間性などいろんなことを学ばせていただきました」。サッカー部で毎日全力で走っていたことがのちの大学で陸上を始めることにつながっていきました。
「高校のマラソン大会で、距離に多少の誤差はあるかもしれませんが約14kmを42分台で走っていました」という陸上部顔負けの走力に、大東大で書道をされていたという担任の先生も後押ししてくださり、指定校推薦で大東文化大学へ進むことになりました。
大東大では準部員からのスタート
大東文化大学の陸上部では当時、スポーツ推薦の選手しか入寮や入部もできませんでした。準部員として寮の近くに一人暮らしをして、清野さんの学生生活がスタートしました。
「大学から陸上を始めて、新鮮でしたね。キツいなと思う練習もありましたが『自分より速い人についていけばいいや』と楽しさが一番でした。あと、高校まで常に全力疾走だったので『余裕もって走っていいよ』って言われるのに驚いたり、JOGって練習なのかな? 妥協じゃないのか? と思ったほどです(笑)」とふりかえる清野さん。陸上を始めて3カ月で初めて出場した5000mのレースでは14分35秒をマーク。翌月には14分25秒まで伸ばしましました。
清野さんの熱意、這い上がっていこうとする姿勢が認められて、2年生になると準部員から正式部員へ昇格しました。
正式部員に昇格し駅伝メンバー入り
2年生になると正式部員どころか、駅伝メンバー入りが見えてきました。初めての10000m出場となったのは全日本大学駅伝の関東地区選考会。当時は最終組の後にオープン参加の組があり、清野さんはそこに出場しました。「最終組の佐々木悟さん(現・亜細亜大学陸上競技部コーチ)からエールもいただき、無事にオープンの組でトップも獲りました」。のちにリオ五輪マラソン代表となる先輩の声かけもあり、初10000mでも堂々の走りでした。
「サッカーをやっていたこともあって、チームスポーツが好きでした。個人種目よりも駅伝が好きでしたね」。チームのために、というところもサッカーと似ていたとふりかえります。
そして2年生で箱根駅伝のメンバー入り。スタートの1区を任されました。「できる限りアピールしてテレビに映って、画面越しに後続の9人に力をと思っていましたね」。ただの目立ちたがり屋というわけではなく、「入部させてもらった恩がありましたし、大学関係者にも大東の復活を見てほしいと思って走りました」と恩返しの気持ちからでした。
2区で待っていたのはチームの大黒柱・佐々木悟さん。「できる限りいいところで渡して、他の2区のエースと戦ってほしいと思って走っていました」。清野さんは区間11位の走り。実際に箱根を走った感想は「反響がすごかったです。箱根を目指すまで見たこともなかったのですが、こんなに見ている人が多いんだと驚きました」。ただ、チームはまさかの途中棄権に終わりました。
チームのために2区に挑む
3年生になり、チームも上位を狙えそうな陣容の中、「誰かが2区を走らなきゃいけない」という状態でした。清野さんは「2区のために1年間練習したいです」と当時、就任されたばかりの奈良修監督(現:流通経済大学駅伝監督)にもお伝えしました。
「エースではなかったですが、誰かが2区を走らなきゃいけないですし、その年は2区さえ乗り切ればどうにかなると思っていました。他の区間は要所要所で適性のある選手がいたので、2区さえ我慢できればどうにかなると思っていました」とチームのために2区を買って出たのでした。
衝撃的なほど悔しかったという途中棄権から予選会を勝ち上がり、迎えた箱根本戦。1年間準備をしてきた花の2区に挑みました。2年前まで正式部員になれず準部員だった清野さんが、各校のエースが集う2区を走ることになりました!
「中継所でアップをしていて、少しは陸上を知ってきていたので『あの人速い人だ』とか『大丈夫かな』という不安もちょっとはありました(笑)。それでも、異色な経歴ということもあってか各校のエースもインカレや他の大会でも面白くイジってくれて話しかけてくれていたので、そこまで緊張はしなかったですね。『やってやるぞ』という気持ちが一番でした!」
初めての2区は「思った以上に相当きつかったです。アップダウンは好きだったのですが、速めのペースで10kmを通過し、思った以上に後半キツかったですね。それでもチームは総合4位になれたので、役割は果たせたかなと。自分は大東文化のために走りたいと思っていました。入れてもらった身なので『大学のために走りたい』、ただそれだけでしたね。その時の4年生が頑張ってくれていたので4位になれました」。区間順位は19位でしたが、2区を耐えしのぎチームは総合4位となりました。
急遽1区にまわった最後の箱根路
最終学年になり、清野さんは山上り5区を視野に入れていました。「大東大といえば『山の大東』と言われていました。自分は上りが得意だったので、上位に入って『山の大東復活』に向けて、次につながってくるのかなと志願しました」。ここでもチームのために、後輩のためにという思いがありました。
5区を見据えて上りの練習をしていて迎えた12月末。「直前に1区を予定していた選手が急遽、走れなくなり、自分が1区に行くことになりました」とまさかの直前での区間変更。しかもこの年の1区は前半からハイペース。山上りをイメージしていた清野さんにとっては苦しい展開となりました。
「(ハイペースで)10kmを自己ベストくらいで通過しましたね(笑)。山に向けて調整していたので、スピード練習もそこまでしていなかったですね」。区間16位で4年生最後の箱根路を駆け抜けました。
陸上は大学までと決めていた清野さん。「大学4年間でいろんなことを経験させてもらいました。佐々木悟さんや各校のエースと一緒に走っている中で、自分はこの先は無理だなと思っていました。悟さんがすごすぎましたね。あの人に勝てないんだったら続ける意味あるのかなというのが正直な気持ちで、大学までと決めていました」。楽しかった4年間と振り返りました。
突然、格闘技への挑戦!
大学卒業後は消防士になることが決まっていた清野さんですが、4年の箱根が終わってから新たに格闘技に挑むことになりました。「治療院の繋がりやご縁で、格闘家の選手からも『箱根を走った選手が格闘技を目指すのは面白い』とお誘いがありまして。格闘技が好きだったので、挑戦してみようと練習を始めました。格闘技は長距離選手とは真逆な体型なので、まずは体重を増やすのが大変でしたね(笑)」
大東大はラグビーも強く、ラグビー部の友人も多かった清野さんはウエイトトレーニングを一緒にしたり、全然違う畑にも挑戦していきました。
消防士というフィールドで
消防士となってから最初の2年くらいは消防士をしながら格闘技もやるという二刀流でしたが、「仕事は仕事でしっかりしなければいけないので、だんだんと格闘に打ち込めないような環境になっていきましたね」。次第に仕事一本に絞り、現在は消防士として12年目となります。
「災害現場にたくさん出るので、人を助ける仕事ですね。火事、交通事故、救急車だったり、いろんな現場で必要としている方がいます。今の仕事の中で覚えることはたくさんあります。いろんな災害がありますし、全く同じ現場はないので知識を増やしたいです。スポーツしかしてこなかったので、勉強の部分で大変なことはあり、自分はまだまだだなと思います」と謙遜されますが、サッカーや陸上に全力で打ち込んで心身を鍛えてきた清野さんの経験はきっと様々な現場で活かされているのではないでしょうか!
消防士をしながらも「走ったり、サッカーをしたり」という清野さん。サッカーに至っては国内で行われている外国人リーグの2部でプレーしているそうです。「いまだに箱根に出たことで声をかけられたりするので、自分も頑張ろうと思いますね」とモチベーションにつながっています。
「自分はご縁に本当に恵まれていたなと思いますね。消防の中でチャレンジできることはチャレンジしていきたいです。また、箱根駅伝で育ててもらえたので、自分に協力できることがあれば積極的にしていきたいです。あとは、しいていえば大東文化大学は自分の母校なので、また強くなってもらいたいという気持ちですね!」
「チャレンジをしてできなかったこともありますが、まずチャレンジすることが大切ですね! 人の繋がりは人生を変えることが多いので、常に謙虚な気持ちを持っていれば新しい道は開けると思います」。高校、大学、社会人と違うフィールドで現状打破し続けてきた清野篤さんは今日もチャレンジし続けます!