北陸高で感じた他の“田臥勇太世代”との差は、中央大1年目でも 群馬・五十嵐圭2
今回の連載「プロが語る4years.」は、群馬クレインサンダーズの五十嵐圭(41)です。五十嵐は2003年に中央大学を卒業後、日立サンロッカーズ(現・サンロッカーズ渋谷)に所属し、Bリーグが開幕した2016-17シーズンからは地元・新潟の新潟アルビレックスBBで、そして2021-22シーズンはB1に昇格した群馬で日本一を目指しています。4回連載の2回目は、北陸高校(福井)での日々と中央大での1年目についてです。
SGからPGになり、「点を取ること」を封印
新潟県上越市に生まれ、小学5年生でバスケを開始。中学時代の最高成績は県大会出場という、ごく普通のバスケ少年だった五十嵐の運命が変わったのは、小学生の頃から憧れていたバスケ部の先輩の背中を追って、全国屈指の強豪校・北陸高校への進学を熱望したことだった。
周囲からは「行っても試合に出られない」と反対の声を多く受けたが、両親だけは何も言わずに応援してくれたという。そして五十嵐は、思い切りのいいオフェンスが監督の目に止まり、1年生でのウインターカップからスタメンに名を連ねることになる。
1980年生まれの五十嵐は、いわゆる“田臥世代”の一人だ。県立能代工業高校(秋田)で前人未到の高校9冠(3年間を通じて全国大会無敗)を果たした田臥勇太(現宇都宮ブレックス)を筆頭に、田臥の最大のライバルだった柏倉秀徳(現ENEOSサンフラワーズコーチ)、田臥とともにバスケ留学の先駆けとなった北郷謙二郎(現三遠ネオフェニックス社長)……。図抜けたスターたちと比べると、当時の五十嵐の実力は少し見劣りするものだった上に、高校バスケの集大成が近づく3年生の秋からはスランプに陥っていた。きっかけはポジションの変更だった。
「高3のインターハイまでは、シューティングガード(SG)としてとにかく点を取る選手だったんですが、上のカテゴリーでバスケットを続けていくことを考えたら、この身長(180cm)でSGは厳しいということで、秋の国体からポイントガード(PG)としてプレーし始めました。そこで僕は、それまで得意としていた『点を取る』ことを封印してしまったんです」
現在でこそ、高い得点力を持つPGは珍しくないが、当時は堅実なゲームコントロールを第一優先とし、自身の得点は二の次というスタイルのPGが主流だった。五十嵐はこのPG像にとらわれ、抜け出せなくなった。
「何と言うか、型にはまってしまっていたなと。PG=ゲームコントロールという昔ながらのイメージで、自分が点を取るよりも、ミスをしないで周りにパスを回して……みたいなプレーをしていたら、自分の武器が何なのかが分からなくなってしまいました」
主将として臨んだ高校最後のウインターカップはベスト16に終わった。心に巣くったモヤモヤを抱えながら、五十嵐は新しいステージに歩みだした。
「田臥枠」があった?
五十嵐が進学したのは中央大。佐古賢一(現レバンガ北海道ヘッドコーチ)や節政貴弘(現テレビ解説者)といった、当時の日本のトップシーンを牽引(けんいん)するPGを輩出した名門大に、五十嵐はかねてより漠然とした憧れを抱いていたが、そこに自分が進学できるとは考えてはいなかったという。「飛び抜けた成績を残しているわけでもないですし、大学を選べるほどの実力はなかったです。中央は確か各学年5人……つまり各ポジション1人ずつしか推薦枠がなかったんですが、その年だけ枠が余ったらしく、たまたま運よく入れたという感じです」。そう説明する五十嵐は、当時ならではの推薦枠が余っていた理由を教えてくれた。
「本当の話かどうか分からないんですが、僕らの世代には『田臥枠』というものがあったらしいんです。アメリカの大学への進学を検討していた勇太が、どのタイミングで国内進学に切り替えても獲得できるよう、いろんな大学が推薦枠を余計に設けていたと。中央大もそれで僕が入れたと聞いたことがありますね。繰り返しになりますが、本当かどうかは分かりませんけど(笑)」
ベンチにも入れず、入っても試合に絡めない
入学の経緯はさておき、五十嵐は憧れのチームに進学した。「自分の武器は何なのか」という問いを胸に、高校時代のモヤモヤを晴らすべくバスケに打ち込んだが、1年生の時はベンチ入りすらままならなかった。
「チームには高校時代に全国上位で活躍したような選手たちが集まっていましたし、先輩とは体の大きさも違いました。かなり長時間練習していた高校時代と違って、体育館が使える時間が短かったのも慣れなかったですね。空いている時間はずっと自主練をしていましたが、それでもベンチにも入れないし、入ったとしても試合に絡めない。もどかしさみたいなものを感じていました」
入学時からポジションはPG。高校時代と同様に堅実なゲームコントロールに徹し、「3ポイントシュートはほとんど打っていなかった」と振り返る。佐古や節政といったトップリーグで活躍する選手も、田臥や柏倉ら同世代も、皆そのようなスタイルを自分のものとし、堂々とプレーしていた。「自分は彼らのようなプレーヤーではない」。それだけは何となく感じ取っていたが、だからといってどうすればいいかは分からなかった。
「このままでは試合に出るのは難しいのかな……」。そんな弱音とともに過ごしたほろ苦い1年目を乗り越え、五十嵐は自身の運命を変える人物と出会うことになる。