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連載:OL魂

関西学院大学のセンター朝枝諒、山あり谷ありの4年をうれし泣きで締めくくる

関西学院大学のOL朝枝諒。一番試合に出られそうと入学時からセンターを志望した(撮影・北川直樹)

感情を抑え切れず、先輩に反発した。ドクターストップがかかり2年間はスタッフに。先発をつかんだのはこの春からだ。関西学院大学の朝枝諒(りょう、清教学園)には山あり谷ありの4年間だった。ファイターズの副将として、オフェンスライン(OL)の中心として、甲子園ボウルで学生フットボールを締めくくる。

ドクターストップで2年間はスタッフ

アメフトの強豪とは言えない大阪の私立高校から門をたたいた。高校3年生の時は練習試合を含めて勝った記憶がない。「選手20~25人に対してマネージャーが8、9人。ある意味華やかなチームでした」。身長が180cm近くあり大阪選抜に選ばれていた。素質を見込まれ誘いを受けた時、「考えさせてください」と保留した。常勝チームの中の自分をイメージできなかった。

予想通り関学のフットボールは「全然違うスポーツをやっている感覚だった。アメフトの『ア』の字も知らないんだと実感した」。本当は好き勝手に暴れ回れそうなディフェンスライン(DL)をやりたかったが、同期に身長190cmの青木勇輝(追手門学院)ら逸材がいた。より試合に出られそうなOL、中でもセンターを目指した。「アメフトIQが低く、実績もなかった。体重を増やすことと筋トレを頑張る、ただひたすらそこだけ」。人の倍やった自信はある。細身の体はどんどん大きくなった。

オフェンス陣を鼓舞しながらまとめあげる(撮影・北川直樹)

ルーキーは熱過ぎた。気持ちが先走りし、体がついていかない。アサイメント(役割分担)やブロックがうまくいかなかったら、上級生に反抗した。「2つ上の森田(陸斗=エレコム神戸)さんが慰め指導してくれた。尊敬する先輩です」。選手層は厚く1年目の甲子園ボウルはユニホームを着られなかった。

勝負の2年目の夏前、グラウンドから救急車で運ばれた。激しさの裏返しでこれが2度目だった。プレーを禁じられ、スタッフに転向することになった。分析班をサポートし、巨漢ではなく、紙とパソコンに向き合った。元々トレーニング好きで、いつか復帰できることを夢見ながら筋力強化は続けていた。ワンプレーに限られるキッキングチームでの出場は許された。

「トレーナーやってみいへんか」。3年生になる時、大村和輝監督から打診された。話がうまく、朝枝自身も選手とコミュニケーションをとる役目の方が分析より向いていると思った。油谷浩之ストレングスコーチらとミーティングを重ね、効果的なトレーニング法を学び、選手に伝えた。今もウェートトレーニングではこういうフォームでやればもっと効果が出るなど後輩に教えている。回り道が思わぬ副産物を生んだ。

よりどころの第3フィールド

最終学年を迎え、出場許可がおりた。「うれしい以上に不安が大きかった。実質、1年生の時しかやっていないので」。副将にもなった。春から先発出場したが、中身はボロボロだった。よりどころにしたのは普段の練習だ。「青木とか山本大地(3年、大阪学芸)ら強力なDLと当たっていて、練習から彼らは日本一のディフェンスユニットだと思っている。そこの練習でしっかり結果を残していければ、試合中も絶対結果は出ると思っている」

相手に当たって道を作り、味方RBが駆け抜けていく気配が心地よい(撮影・北川直樹)

全てが練習場の第3フィールドにある。王者の哲学だ。練習でできたこと以上でも以下でもない。「緊張しない方法がある。試合会場を第3フィールドだと思い込む。試合と練習をわけない。練習と同じように声も出せる」。初めてだった立命館大学との2度の激闘を乗り越えた。いつもランを出せずに苦労したライバル相手に充実のRB(ランニングバック)陣が奮起した。「ブロックしていると(RBの)足音や、風が一瞬ふっとすり抜ける瞬間がある」。攻撃を下支えするOL冥利(みょうり)に尽きる瞬間だった。

「勝って泣く」

大阪・岸和田市出身、「だんじり」に心躍らせた小学生は柔道に熱中して中学生では全国大会にも出た。清教学園高では最初スポーツから距離を置いたが、1年秋にアメフトの練習会に参加、この競技の楽しさを知った。そして、関学ではチャンピオンシップに触れてきた。

チーム一の泣き虫という一面も(撮影・朝日新聞社)

丸刈りを試合ごとに自分でそって臨む副将は自他共に認める泣き虫。コロナ禍前、ファイターズハウスで邦画を見ていた。一人ポロポロと泣いた。「君の膵臓をたべたい」だったか。一緒に見ていた仲間からいじられた。
「負けて泣くのは絶対なしなんで、勝って泣けたらいいかな。泣いていたらその時は存分にいじってくれと思っています」

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