都大路優勝、中京大で杜の都を走った榊原海紗さん、ランナーに寄り添うセラピストに!
今回の「M高史の陸上まるかじり」は榊原海紗さん(さかきばら・みさ、25)のお話です。豊川高校(愛知)時代には全国高校駅伝(都大路)で優勝も経験。中京大学では全日本大学女子駅伝(杜の都駅伝)にも出場。大学卒業後、ラフィネグループで競技を続け、現在は「プライベートサロン33」(東京・東中野)でオーナーセラピストをしています。
気管支炎で水泳と陸上に出会う
愛知県出身の榊原さん。陸上を始めたのは小学3年生の時でした。「元々、気管支炎で肺が弱くて水泳教室に通っていました。水泳教室に月2回ほど陸上教室があって、陸上の方がはまってしまったんです(笑)。そこで会った友達が陸上クラブを教えてくれました」。週3回、長距離だけでなく、短距離・ハードル・リレー・走り幅跳びなど色々な種目に挑戦。気管支炎もいつの間にか治り、むしろ長距離が得意になっていったそうです。
中学で陸上部に入ったものの、長距離女子が1人だけという環境でした。「コーチが豊川高校の監督と知り合いで、たまに土日など豊川高校の練習へ参加させていただきました。いいところを見せようと普段の練習とは全然違うくらい集中していましたね(笑)」。豊川高校での武者修行の成果もあって中学時代は800mで東海大会に出場し、10位に入りました。
豊川高校で全国制覇
高校は中学時代からお世話になっていた豊川高校へ。
「私の代は4人いたのですが、私以外の3人は1500mで全国大会出場や入賞していて、1年生からAチーム。私はCチームからのスタートだったので、ちょっとやっちゃったなと思いましたね(笑)」。来るところを間違えてしまったのではと思うほど、ハイレベルな環境でした。
それでも榊原さんは諦めず、できることをコツコツ続けていきました。「動き作りや補強を重視する監督でした。弱い分、やるしかない!と監督の一番近くで必死にやっていました。動き作りや補強もこだわって必死にやっている内に段々芽が出てきましたね」と、基本となる体作りや動き作りから必死で真剣に取り組んでいたところ、その後にタイムもぐんぐん伸びていきました。
そして、都大路のメンバーに。榊原さんは4区を任されました。豊川高校は3区でトップに立ち、榊原さんは区間5位の走りで首位を堅持。そのまま逃げ切り、チームは優勝を飾りました。
「豊川高校が都大路で優勝しているのをテレビで見て、豊川高校に入りたいと思ったので、レース中はきついとかなく、夢なのではないかとフワフワしていましたね(笑)。ただ、当時は優勝しても感動もそんなになく、優勝して当たり前という雰囲気でした。今、思えば、自分頑張ったなと思えるのですが」と、優勝が宿命づけられた当時のチームの雰囲気を話されました。
奇跡は努力のご褒美
高2で都大路優勝を飾ったものの、榊原さんは事情があって駅伝部を離れることになりました。
「練習がつらくてやめたと思われたくなかったので、隣のグラウンドで1人で同じメニューをやっていましたね(笑)。豊川高校は駅伝部と陸上部が別にあるのですが、陸上部の監督が『陸上部でよければ一緒にやらない?』と声をかけてくださいました」。陸上部では短距離やハードルに取り組み、高3のインターハイ路線はなんと400mと400mハードル(H)に出場。「小学生の時に80mHで全国大会にも出ていたのですが、400mHは新鮮でしたね! 周りの子から驚かれましたが(笑)」。前年の都大路優勝メンバーが400mHに出場していたら、確かにびっくりされますね!
そして、夏合宿から駅伝部に復帰。「トラックのベスト記録も更に伸びていきました。短距離やハードルで、ウェートトレーニングにも取り組み、スピードが磨かれましたし、やはりいろんな種目をやるのは大事だなと思いました」。再び都大路の舞台へ。前年同様4区を駆け抜け、チームは6位という結果でした。
「365日陸上のことを考えていました」という高校時代。榊原さんの心の支えとなったのは小学生の時から好きな 「奇跡は努力のご褒美」という言葉でした。
「入部の時は一番遅かったのに、『私は走れるだろう』という謎の自信がありました。自分を信じてあげるって大事だなと高校生の時に感じていましたね」と、自らの可能性を信じて挑戦し続けた3年間となりました。
故障に苦しんだ大学4年間
高校卒業後は中京大学へ。杜の都駅伝にも出場しました。「大学生になって試合を楽しむことができましたね。杜の都も2日前に仙台に入って、牛タンを食べて、ご当地も楽しめていました(笑)」という楽しい思い出もありましたが、大学ではけがに苦しみました。
「高校時代に生理が止まっていたこともあってか、5回疲労骨折もしました。ぬけ症も経験しましたね。都大路で優勝した子が入ると期待されて入ったのに、走れず補強しかできない日々でした」。それでも榊原さんは前を向いていました。
「良くも悪くも陽気な性格なので(笑)。けがをしていると自分の体を見つめ直す機会にもなります。あの時はつらかったですが、今はあの時期があって良かったと思えます」。学部でも解剖学、運動生理学、バイオメカニクスなどを学び、自身でも体について知見を深めていきました。
「当時、愛知に住んでいましたが、いい先生がいると聞けば、京都まで治療に行ったり、一通りいろんな治療を受けたりしたのは勉強になりましたね」。故障に苦しみながらも様々な経験を積んだ4years.となりました。
ランナーに寄り添うセラピストへ
大学卒業後はラフィネグループへ。「いろんな選択肢がある中で、体に携わる仕事をしたい、もうちょっと競技も続けたいと思いました」と1年間、セラピストランナーとして競技を続けました。
その後、OLに転身。「ずっと陸上しかしていなくて、普通の人がやる受験とか就活とかを一切してこなかったんです。普通に生きていけるのかなと心配になりました(笑)。普通に働いてみたい!と思ったんです」。半年ほど営業職で働き、「ちゃんと普通の人にもなれるんだと安心しました(笑)。それで本当にやりたかったセラピストにふりきれましたね!」
榊原さんが思い描いていたのは一人ひとりに寄り添う個人サロンでした。「大学生の時に一番お世話になった主婦の方が在宅サロンをされていて、第2のお母さんのようなあったかい空間だったんです」
名前の海紗(みさ)から「33」をとって、令和3年3月3日にプライベートサロン33を開業し、オーナーセラピストとしての生活がスタートしました。
「初めは自分から陸上の経歴を言っていなくて、デスクワークがつらい方、ボディラインを美しくしたい方などが来てくださっていたのですが、段々ランナーのお客様が増えてきて、ありがたいことに口コミで広がっています。ランナーさんの走りの動画を見せていただいたり、練習メニューの話だったり、私そういう話好きなんだなって改めて思います(笑)。通ってくれている方の夢や目標を一緒に追わせていただくのが今のやりがいですね! これからも技術や知識を深めていきたいです!」
高校で全国優勝を経験し、大学ではけがに苦しんだ榊原海紗さんですが、自身の経験を生かしてランナーさんに寄り添う存在として、新たなフィールドで日々現状打破を続けています!