バレー

連載: プロが語る4years.

東海大でのラストマッチも、相手は石川祐希率いる中央大 JT広島・小野寺太志3

東海大でのラストイヤー、小野寺(右)は主将としてチームを支えた(写真は本人提供)

今回の連載「プロが語る4years.」は、男子バレーボール日本代表として昨夏の東京オリンピックにも出場したミドルブロッカー小野寺太志(26)です。現在はJTサンダーズ広島で主将を務めています。4回連載の3回目は東海大学での4年間についてです。

東海大1年目に感じた先輩との絆、“できる”という自信 JT広島・小野寺太志2

「必ず中大がいるんです」

ライバルで友達。U18日本代表ではチームメート、日本一をかけて戦う高校、大学ではライバル。小野寺にとって、同級生の石川祐希(現パワーバレー・ミラノ)は「味方なら心強い」、でも「絶対に負けたくない」特別な相手でもあった。

「コイツにだけは負けたくない」、顕著にそう思っていたのが大学時代。なぜなら全日本インカレでは4年連続で石川が在籍する中央大学と当たり続けたからだ。しかも、負け続けた。

「大会の組み合わせが決まって、トーナメントを見るじゃないですか。勝ち上がるにはきっとこことここが大きなヤマになる。そうやって見ていくと、必ず中大がいるんです。また当たるのかよ、って何度も思っていました(笑)」

1年生から3年生までは中央大が制覇。石川のみならず、星城高校(愛知)時代から石川のチームメートで対角に入るアウトサイドヒッターの武智洸史(現・JTサンダーズ広島)や、オポジットの大竹壱青(現・パナソニックパンサーズ)など同世代の攻撃力が高い選手もそろう。東海大も攻守に長(た)けた選手を擁していたが、いつも大一番では石川に押し切られた。

清水主将vs.福澤主将の一戦に学び

ラストチャンスは最後の全日本インカレ。4年生で主将として迎える最後のインカレは何が何でも日本一になりたい。石川に負けたくないという思いもあったが、それ以上に大学最後のインカレには特別な思いがあった。

小野寺(右)は主将として迎えたラストイヤーは「日本一」だけを目指していた(撮影・朝日新聞社)

「ゼミで昔の試合をいろいろと映像で見る機会があって、その中でも一番印象的だったのが清水(邦広、現・パナソニックパンサーズ)さんが4年生の時のインカレ。福澤(達哉)さんがキャプテンだった中大との準決勝です。僕はどうしても東海寄りに見るので、中大を敵として見ちゃうんですけど、福澤さんはもちろん、他の選手もみんなすごいんですよ。攻撃もバンバン決めるし、ブロックもする。めちゃくちゃ強い。だけどそのめちゃくちゃ強い人たちに東海が勝つ。その中心で打ちまくったのが清水さんで、とにかくすごい。あの気合や表情は、今でも忘れられません」

16年ぶりの五輪での悔しさ、福澤達哉とのラストマッチ パナソニック・清水邦広3

偉大な先輩の姿に胸が熱くなり、一方ではもう1つ、大事なことも学ばされた。

「中大とのフルセットを勝って、東海が優勝。普通はそう思いますよね。でも勝ったのは日体大で、個の力だけじゃなく組織力が完璧だった。清水さんがいるスター軍団の東海ですら勝てない。最後のインカレは、絶対“個”の力だけで勝てる大会じゃないんだ、と思い知らされました」

大学最後は3位決定戦、相手はやっぱり中央大

迎えた本番。初戦から順当に勝ち上がり、準決勝進出。だが、そこで早稲田大学に敗れた。あと一歩、二歩で夢の日本一に手が届くところで負けた悔しさはあったが、大学最後の試合は勝って締めくくりたい。反対の山はおそらく中央大が決勝進出を果たすだろう、と考えていたが、フルセットの大熱戦を制したのは筑波大学。大学最後のインカレ、またも対するは中央大。そして試合に勝利したのも、中央大だった。

「最後も中大かよ、と思ったし、また負けるのかって。悔しかったですね。最後の1年で自分自身は初めて日本代表にも選ばれて、合宿や試合もあって半分ぐらい(大学には)いなかった。同期は熱い奴らが多くて、キャプテンである自分がいなくてもチームを引っ張って、まとめてくれてすごくありがたかったし、だからこそ勝ちたかったです」

大学時代、中央大・石川が何度も立ちはだかった(写真は2016年度、撮影・朝日新聞社)

東海大のユニホームを着て日本一になることはできなかった。でも、卒業した今、残るのは悔しさをはるかに上回る感謝しかない。小野寺はそう言う。

「東海大の青いユニホームを着られたこと。あの素晴らしい環境でバレーができたこと。積山(和明)先生に、バレーボールはもちろん、人間として大切なことを教えてもらったこと。全て僕にとっては財産で、東海大で4年間過ごすことができて本当に良かったです」

世界の選手に初のアウトサイドヒッターとして挑む

大学で日本一を目指し、仲間と濃い日々を過ごす。更に同時期、小野寺は2020年の東京オリンピックに向け、日本代表として自身を磨くことも求められた。

高校時代からU18日本代表に選出され、2mの高さは世界と渡り合える武器でもある。だがそれが国内トップで、オリンピックを目指すシニア代表となれば話は別だった。15年に初選出され、17年のワールドリーグでシニア代表デビューを果たし、同年のワールドグランドチャンピオンズカップに出場。当時から大学でもミドルブロッカーとして活躍していたが、攻撃やブロックだけでなくレシーブも器用にこなす小野寺の可能性を見出し、その年にコーチに就任したフィリップ・ブランは小野寺をアウトサイドヒッターとして起用した。

大学時代にもしていなかったアウトサイドヒッターを世界の舞台で経験したことは、スキルアップを誓うきっかけになった(写真は本人提供)

高校、大学でもやったことがないポジションをいきなり日本代表で担う。しかも相手はブラジル。サーブもスパイクも組織力も超一流で、満足いくプレーなどできるはずがない。だが、その悔しさが自らのレベルアップ、スキルアップを誓うきっかけにもなり、大学卒業後に進んだJTサンダーズ広島で小野寺はミドルブロッカーとしてルーキーイヤーからレギュラーの座をつかみ、18年にはアジア大会、世界選手権に出場した。

うまくいったことよりも、できないこと、うまくいかなかったことの方が多い。本当の意味で自信を持てるようになったのは、大学卒業から2年が過ぎ、東京オリンピックへ向けたカウントダウンが進む19年。日本代表にとっても飛躍の大会となったワールドカップが、小野寺にとっても大きな意味と自信をもたらした。

プロが語る4years.

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