バレー

連載: プロが語る4years.

バレーは高校までのつもりだった無名選手が日体大で覚醒 WD名古屋・高梨健太(上)

高梨は2020年から日本代表としても活動している(写真・ウルフドッグス名古屋)

今回の連載「プロが語る4years.」は、男子バレーボール日本代表として昨夏の東京オリンピックにも出場したアウトサイドヒッター高梨健太(25)です。現在はウルフドッグス名古屋でプレーしています。2回連載の前編は山形城北高校(山形)を経て進んだ日本体育大学の1年目についてです。

バスケのリングにタッチできるまで練習ができない

高校までは無名の存在だった。

2人の兄の影響で、高梨は小学6年生からバレーを始めた。「むちゃくちゃ楽しかった」と振り返るように、遊びの延長でボールに触る日々。元々、外遊びが好きで、山形の自然を存分に生かし、近所の公園で野球や缶蹴り、自転車での鬼ごっこや基地づくり。家でじっとするよりも動き回るのが性に合っていた。

だからといって運動神経が抜群だったかといえば、高梨曰く「そうでもない」。バレーを始めてからも特段周囲を圧倒する存在だったわけではなく、むしろセンターやレフトに入る選手が当時は“エース”とされるチームで、高梨のポジションはライト。今では考えられないが、攻撃の回数は数えるほどしかなかった。

小さい頃から体を動かすことが好きだったが、運動神経が良かったわけではないという(写真は本人提供)

中学でも県ベスト8が最高成績で、高校は4歳上の兄と同じ地元の山形城北へ。当時は「バレーボールは高校まで。卒業したら就職しよう」と考えていた。身長は180cm、恵まれた体軀(たいく)はあったが、入学当初はジャンプ力がなく、監督から「バスケットボールリングにタッチできるようになるまで練習に入れない」と言われ、ボールに触るよりもまず、ジャンプ力や体力を高めるための地道な練習に明け暮れた。

チャンスが巡ってきたのは、高校2年生になってから。小手先のテクニックばかりを重視するのではなく、「バスケットボールのリングが触れるように」と目標を定め、しっかり跳ぶ、たたく、と基本を疎かにしない指導のおかげで跳躍力、攻撃力が一気に伸びた。チームメートは高梨より小柄な選手ばかりで、全員で攻撃するために速さを追求しようとしたがうまくいかず、2年生で初めて春高に出場した直後、最上級生として迎える春を前に監督から告げられた。

「全部健太に上げればいい。健太が決めろ」

エースとして託される。嬉(うれ)しくもあったが、公式戦以上につらかったのが練習試合だ。夏休みや春休みに複数校が集まる時は、1日に何十セットも行い、そのほとんどで自ら打つ。「1セット終わる度、『あと何セットだろう』って思いながらやっていました(笑)。でも、体はきつかったですけど、やめたいとか、嫌だと思うことは全然なかったですね」

「4年間ずっと、球拾いで終わるんだろうな」

チャンスを生かし、中学までは遠かった全国大会に高校では2度出場した。3年間で培われた攻撃力にも磨きがかかり、卒業後は上京し、関東1部リーグに属する名門・日体大へ。これが大きな転機となるのだが、当時の高梨にとってはまるで未知の世界。

「関東のバレーが強いとか、日体大が強いとか、そういうことを一切知らなかったんです。声をかけていただいて、高校の監督からも『こんなチャンスはめったにないぞ』と言われ、じゃあ日体大に行こう、ぐらいの軽い気持ちで入ったら、まぁ大変で(笑)。入ったばかりの頃は、終わった、と思っていました(笑)」

日体大では日常生活から厳しいルールを設けられ、慣れるまで時間がかかった(写真は本人提供)

高校時代も練習の厳しさやコートで果たす役割はあったが、大学になれば上下関係の厳しさ、共同生活のルール。高梨には未体験のことばかり。朝練が始まる7時45分には練習ができるように準備をするのも1年生の仕事なのだが、それぞれ何を用意するかが担当制になっており、高梨が担ったのはネット担当だった。緩みなく、素早く張り終えなければならず、練習前から汗だくになるほど。自分の担当でなくとも、誰かがミスをすれば咎(とが)められ、バレーボールがうまくなる、ならないの前に怒られないことが毎日の目標だった。

「僕は高校までにそういう経験がないから、最初はなぜ怒られるのか分からない。今振り返れば異常だな、と思いますけど当時は必死でした。2年生になったら『必要ないものはやめていこう』と先輩が緩和してくれたので、だいぶ楽になりましたけど、最初の頃は『4年間ずっと、球拾いで終わるんだろうな』と思っていました。もう一度あの頃に戻れと言われたら、すぐにやめてしまうかもしれませんね(笑)」

元リベロの山本監督の教え

慣れない上下関係だけでなく、入学当初は基本を重んじ、徹底する練習の厳しさにも苦戦した。日体大を率いる山本健之監督は現役時代、リベロで守備のスペシャリストでもあった。アンダーハンドパス、オーバーハンドパスをきっちり正確に、とただ2人1組で正面に向き合ってパスをするだけでなく、Nの字や三角形、布陣を変えながら移動時のステップ、下がる時の姿勢など細かな点まで意識を向けるよう指導を受ける。

ボールコントロールと周囲への連携を図るべく、3人1組でボールを2つ用いて3m、6m、9mと距離を変えて1分間行うパス練習も、途中でボールが落ちたら最初からやり直し。慣れた手つきで回数をこなす先輩たちの視線を感じながら、クリアできないプレッシャーと戦う。だが、ただやらされるのではなく、なぜこの練習が必要か。山本監督の指示は的確だった、と振り返る。

山本監督からの学びは今にも生きている(写真・ウルフドッグス名古屋)

「リベロとしての目線だけでなく、スパイカーがスパイクヒットする時の位置とか、その時にボールがどこへ飛ぶからこうやって守るとか、聞けばいろいろな答えがある。何よりプレーで見せてくれるんですけど、それがめちゃくちゃすごいので説得力があるんです。今もレシーブは上手な方ではないですけど、Vリーグに入って、こうしてサーブレシーブもできるのは大学時代にたたき込まれた経験が大きいし、厳しかったですけど、バレーだけでなくいろいろなことを教えてもらったから。今があるのはあの時間があったからであるのは間違いないし、感謝しても感謝しきれないです」

基礎を重んじ、それまでとは違う人間関係を育み、もまれながら劇的に成長を遂げる。「苦しかった」と振り返る日々は、後に新たなステージへとつながっていく始まりでもあった。

日体大で芽生えた欲、日本代表として「飛び抜けていたい」WD名古屋・高梨健太(下)

プロが語る4years.

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