陸上・駅伝

連載:M高史の陸上まるかじり

神大で箱根駅伝優勝の主将・中野幹生さん、松蔭大で治療もできる監督として杜の都へ

神大OBの中野さん(前方中央)。現在は松蔭大学女子駅伝部の監督をされています(撮影・M高史)

今回の「M高史の陸上まるかじり」は中野幹生(よしお)さん(46)のお話です。神奈川大学では主将を務め、箱根駅伝の総合優勝に貢献。実業団で競技を続けた後に鍼灸(しんきゅう)の国家資格を取得。トヨタ車体でコンディショニングコーチを務めた後、現在は松蔭大学女子駅伝部の監督をされています。「治療もできる監督」として全日本大学女子駅伝や富士山女子駅伝出場を目指す選手の皆さんの指導に当たっています。

兄を追いかけ神奈川大学へ

和歌山県出身の中野さん。小学校から走るのは得意で中学から陸上を始めました。和歌山北高校時代は中谷隆哉先生のご指導のもとで中距離を得意とし、インターハイに2度出場。全国高校駅伝にも出場しました。

和歌山北高校時代は全国高校駅伝にも出場しました

3歳上の兄・剛さん(現・神奈川大学陸上競技部駅伝チームコーチ)の影響で、箱根駅伝を目指し神奈川大学へ。

「高校時代は中距離をやっていましたし、1日の走行距離は10kmくらいでした。大学に入って練習量が倍以上になりましたね! ジョグも週に1度は120分、最低でも90分はやっていました。120分ジョグも最初は頑張らなければできなかったのですが、当たり前にできるようになった時に一気に強くなりましたね」

当時、横浜キャンパスから練習拠点の中山キャンパスまで約10kmをウォーミングアップで走り、ポイント練習をして、10kmをダウンで走って帰ってくるのも神大の伝統。「最初はそれさえも全然ついていけなかったですね(笑)」と振り返ります。

1年生ながら出雲駅伝のメンバー入り。4区区間4位という大学駅伝デビューとなりました。「そのあたりから記録が出るようになっていきました」と自信にもつながっていきました。続く全日本大学駅伝では7区を区間7位で駆け抜けました。

箱根路の苦い経験

2年生になると「一気にトントンと記録が伸びました」とさらに力をつけ、関東インカレ2部5000mでは3位にもなりました。

全日本大学駅伝では1区を任され区間5位。神大は常に上位争いを繰り広げ、7区で中央大学と同タイムの首位に立ち、最終的には4位となりました。この年の8区は今も伝説となっている当時・早稲田大学の渡辺康幸さん(現・住友電工陸上部監督)が1分31秒差をひっくり返して逆転優勝を飾られた時です。56分59秒は今も8区の日本人最高記録として残っています。ちなみに、惜しくも2位となったのは当時・中央大学の松田和宏さん(現・学法石川高校陸上部監督)。遠藤日向選手が学法石川高校から住友電工に進んで活躍を続けるのもご縁を感じますね!

中野さんは全日本大学駅伝に続いて箱根駅伝でも1区を任されたでしたが、区間14位(当時15チーム)と苦しい走りとなりました。チームにとっても4区で途中棄権という結果に。優勝争いからまさかの箱根予選会からの再スタートなりました。

3年生での全日本大学駅伝では3区で区間賞を獲得し、チームの初優勝に貢献。箱根駅伝に向けて前年の雪辱を果たそうと練習に取り組んでいましたが、箱根駅伝の直前にインフルエンザにかかり、中野さんはメンバーから外れてしまいました。神大は初の総合優勝を飾りましたが、中野さんは「10区を予定をしていたので、本来ならゴールテープを切っていたんですよね。ちょっとした自分のミスでショックでした。ただ、もし3年生で優勝のゴールテープを切っていたら、その後、勘違いしていたかもしれないですね(笑)」

主将として箱根総合優勝

4年生で主将を任された中野さんでしたが、「練習を必死になってやりすぎて……」と故障に苦しむ日々が続きました。

11月の全日本大学駅伝では2連覇を飾ったものの、中野さんは同じ4年生の高嶋康司さんと故障で別メニュー。伊豆大島で約2週間の合宿をしていました。「当時は島流しのように感じましたが、後になって考えると大後(栄治)監督の配慮だったんだと思います。その時はウォークしかできなくて、全日本はテレビで見ていました。それが相当きつかったですね」。高嶋さんは2年前の箱根駅伝で途中棄権も経験。中野さんとは同部屋で仲も良かったそうです。

当時、11月下旬の横須賀シーサイドマラソン(20km)が神大にとって箱根駅伝のエントリーメンバーを決める重要な選考会となるレースでした。「肋間(ろっかん)神経痛が治らなくて、なんとか走れるようになったのがレース2週間前でした。ジョグをして、400mのインターバルをやって、それだけでレースに出ましたね。なんとか13番手くらいに入って、チームのエントリーのメンバーには滑り込みました」。万全の状態ではない中、主将として執念の走りでメンバーに滑り込みました。

そこからは調子もどんどん上がっていったそうですが学生同士のミーティングでは「最近走り始めたばかりなのにメンバーに入って本当に走り切れるのか?勝負できるのか?」という声が遠慮なく上がったそうです。

「当時の神大は学生のミーティングからすごかったです。箱根のためにチームが勝つためだったら平気で言い合える環境でした。同じ目標があるから後腐れもなかったですし、指摘されても怒らない、言われたらそうだなと、お互い指摘し合っていましたね」。チームが勝つために1週間に1度はこのような本気のミーティングを重ねていきました。

「本当に走れるのか?」という声に対して「絶対できるとみんなを納得させてメンバーに入りました。悔しかったですし、これで絶対外せない。言ってもらって良かったです。厳しい目があったから選ばれた人間が強い。だから駅伝でも誰も外さないんですよ」。学生同士で言い合い、大後監督は学生たちに任せていました。

「高校では中谷先生に競技者としての基本を教えていただきました。先生に言われたことを守ることで強くなってきました。神大では自分で考える、やらされてる練習では強くならないということを大後監督に教えていただきましたね。今、自分が監督になって、そういう雰囲気を作るのが難しいと感じています。本気でやってる子たちが夢を見れるような環境作りですよね」と、当時の経験は指導者となった今にもつながっています。

主将で迎えた最後の箱根駅伝で中野さんは7区区間賞を獲得し、チームの連覇に貢献しました

主将で迎えた最後の箱根駅伝。中野さんは7区を任されて区間賞を獲得し、チームは連覇を飾りました。

「4年生の時は前年に優勝して翌年の重圧に苦しんだ1年でしたね。学生生活は故障が多くて精神的につらいことの方が多く、いい思い出よりもつらい思いでの方が多かったです。それでも、神大での4年間で人生を変えてもらいました」と言うほど、つらいことも苦しいことも嬉(うれ)しさも喜びも、様々な感情を味わい経験した4years.となりました。余談ですが、中野さんの兄・剛さんは現在、神大のコーチを務めていらっしゃり、今年4月には中野さんの長男・蒼心選手(三浦学苑)が神大に加わりました。

治療もできる監督

大学卒業後は実業団の雪印で競技を続け、雪印の廃部とともに佐川急便(現・SGホールディングス)へ移籍しました。実業団でも故障に苦しんだ中野さん。実業団選手としては7年間競技を続けました。

実業団時代にはニューイヤー駅伝にも出場しました

現役引退後、「自分ができること、経験したことで陸上界に何か貢献したい」という思いから、鍼灸の専門学校に通い鍼灸・あんまマッサージの国家資格を取得しました。

資格取得後は実業団・トヨタ車体でコンディショニングコーチに。当時の髙橋昌彦監督(現・日本郵政グループ監督)に声をかけてもらい、双子ランナーとしても活躍された大南博美さん・敬美さん姉妹をはじめ、中野さん自身も競技経験も生かして選手のコンディショニングと治療にあたりました。

その後、2010年4月より松蔭大学職員に。翌11年4月に松蔭大学女子駅伝部が始動しました。今年で監督就任12年目になります。

松蔭大学女子駅伝部の監督として就任12年目を迎えました(奥が中野さん)

「治療もできる監督」として監督と治療の二刀流。「合宿中などは大変ですね。練習を見た後も選手の治療をしているので、もう1日中動いてますね(笑)。それでも選手たちが故障をしないてくれれば」と選手思いの熱い監督さんです。

指導だけでなく、鍼灸の資格を生かして選手の治療も行います

また、教え子で松蔭大学OGの吉田美咲さんもコーチに。選手たちのお姉さん的な存在であり、良き相談役でもある吉田コーチの就任で、指導の幅も広がりました。

教え子の吉田コーチ(左端)も就任。指導の幅も広がりました(中央が中野さん)

「大学生活終わった時に、やっぱり走るのが好きと感じてもらえたらと思っています。長距離は練習を継続できて強くなる種目です。短期間だけでも走れても強くなれない競技です。選手の強化ももちろんですが、気持ちのある選手や走るのが好きで目がキラキラした選手を育てていきたいです。自分を慕ってきてくれている子たちのためにも、全日本大学女子駅伝に連れて行ってあげたいですね!」

奥多摩駅伝で優勝した時の写真。全日本大学女子駅伝を目指し、挑戦は続きます!

陸上に恩返しをしたいという中野幹生監督は指導でも治療でも選手の笑顔のため、今日も現状打破し続けます!

M高史の陸上まるかじり

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