陸上・駅伝

連載:M高史の陸上まるかじり

「最後はやっぱり村山謙太」と言われるために 福岡国際マラソンは、結果で見せる

駒澤大学、旭化成とトラック、駅伝、ロードで活躍を続ける村山謙太選手(写真提供・旭化成陸上部)

今回の「M高史の陸上まるかじり」は村山謙太選手(旭化成)のお話です。駒澤大学時代は日本インカレ優勝、全日本大学駅伝4連覇、ハーフマラソン日本人学生最高記録(当時)などの活躍。旭化成に入社後も、2015年世界陸上に10000mで出場しました。今年11月の東京レガシーハーフで日本人トップ。12月4日の福岡国際マラソンで9度目のマラソンに挑む村山謙太選手に、取材しました。

中学時代は双子の弟・紘太選手とラグビー

宮城県出身の村山謙太選手。双子の弟・紘太選手(現・GMOアスリーツ)といつも一緒でした。「親の影響で、中学では双子でラグビーをしていました。当時は身長も150cmくらいと小柄だったので、ただ痛いだけでしたね。陸上もかけもちしていて、県大会では3000mで9位でした。うれしかったですが、8位入賞できなくて賞状をもらえなかったのが悔しかったですね」

双子の弟・紘太選手とはいつも一緒でした(写真提供・本人)
身長150cm前後と小柄だった八軒中学時代(写真提供・本人)

明成高校(宮城)で陸上部に入部。弟の紘太選手も一緒に陸上部に入りました。身長が中学3年から高校1年までの1年で12cm伸びたこともあってか、記録も急激に伸びていきました。「5000mは中学時代に全中で活躍していた選手と同じくらいの記録を出すことができ、全国で同学年の選手に勝つんだという意識に変わりました」。そこからは全国で勝負することを考えるようになっていきました。

3年生になると「自分が日本一になるんだ」と、記録も同学年ランキングトップとなる5000m13分49秒45、10000m28分23秒18をマーク。都道府県駅伝でも5区区間賞を獲得するなどの活躍しました。「陸上に対する熱意、今後の人生で陸上で生活していく上での大きなきっかけとなった高校3年間でしたね」と振り返ります。

「強いチームでやりたい!」と駒澤大学へ

「大学では強いチームで、強い選手が集まったところでやりたいと思いました」ということもあり駒澤大学へ。弟の紘太選手は城西大学に進学しました。「紘太は、自分と同じところに行っては、大学でも自分に勝てないと思ったんです」。双子でそれぞれ別の大学に進みました。

駒澤大学の印象は「強いってこういう環境だよな。これで強くなれると楽しみでした」とワクワクしていたそうです。

初めての日本インカレは、ルーキーながら5000mで優勝を飾りました。早稲田大学の大迫傑選手(現・ナイキ)、同じ駒澤大学の先輩・窪田忍選手(現・九電工)、留学生のジョセフ・オンサリゴ選手(当時・創造学園大学)を振り切っての優勝でした。「キツい状態でずっと走っていたのですが、気がついたらラスト1000mでした。スタンドの大八木(弘明)監督から『ラスト1000mまで行ったら勝てる!ラスト200mで勝負しろ!』と檄(げき)が聞こえて、目が覚めて自分の得意な展開に持ち込めました。大八木監督の檄はスタンドからもハッキリ聞こえるんです(笑)」

3大駅伝デビュー戦となった出雲駅伝1区では、積極的に先頭についていったものの後半でペースダウン。「日本インカレ優勝からの出雲ということで、自分の中でプレッシャーを感じていました。自分で遅れたらまずいと思って走った出雲でした」。区間13位とほろ苦い大学駅伝デビューとなりました。

続く全日本大学駅伝で優勝。2区区間3位の走りでチームを先頭に押し上げ、貢献しました。「駅伝で優勝するのは初めてで、こんなにうれしいんだと思いました。いい形で力を発揮できてよかったです」

大学1年、初の全日本大学駅伝は2区を走り、優勝に貢献しました(撮影・朝日新聞社)

箱根駅伝はエース区間となる花の2区に登場しました。「今振り返ると、いっぱいいっぱいだったかなと思います」。区間9位と洗礼を浴びました。

世界を経験し、駅伝でも区間新

2年生で世界ジュニアに出場しました。(村山選手は早生まれのため出場可能)「初めての日本代表で、世界の強さ、次元が全く違うことを経験できました。世界の舞台に立ち、現実を知りました」。その後はユニバーシアード、世界ハーフマラソン日本代表と国際舞台出場を続けていきました。

学生時代、3大駅伝皆勤賞の村山選手ですが、3年生で迎えた全日本大学駅伝の走りは駅伝ファンの皆さんの間でも衝撃だったのではないでしょうか。直前の出雲駅伝で区間賞・区間新記録をマークしてチームの優勝に貢献。好調で迎えた全日本大学駅伝では、4区を任されました。当時は14.0kmで中盤の要となるエース区間の一つでもありました。

区間記録を保持していたのは、メクボ・ジョブ・モグス選手(当時・山梨学院大学)の39分32秒。村山選手はそのモグス選手の記録を上回る39分24秒の区間新記録を更新する驚異の走りを見せたのです。

先頭を行く東洋大学と10秒差の2位で、襷(たすき)を受けました。「1km2分40秒で入って、早い段階で東洋大の田口(雅也)選手(現・Honda)に追いついて、3kmが8分30秒でした。1kmから2km、2kmから3kmとも2分55秒ですごく遅く感じたんです。『これは行けるかも?』と思って、そこから2分48秒イーブンでいきました。大八木監督の奥さんが『区間新記録ペースで行ってるよ!』と沿道から応援していただいたのですが、4区はモグスさんの記録だから『区間賞ペース』の間違えかなと思っていました(笑)。区間記録を更新したのも、走り終わるまで全然わからなかったですね」。自身も驚きの区間記録更新でした。

3年のときの全日本ではモグス選手が持っていた区間記録を更新しました(撮影・朝日新聞社)

箱根では1年生以来となる2区に登場。「モグス選手の記録を抜こうとかなり突っ込みました。行けると思って走りましたが、痙攣(けいれん)を起こしてしまいました。途中棄権するんじゃないかと頭をよぎりましたが、なんとか走りきることができました」。途中まで快調なペースで攻めたものの、痙攣で終盤にペースダウン。区間2位となりました。

全日本1区で実現した双子対決

箱根後は丸亀ハーフマラソンで1時間00分50秒と、ハーフの日本人学生記録を樹立(当時)。4年生になり10000mでも27分49秒と27分台に突入しました。

4年生のときの出雲は台風で中止となりましたが、全日本では1区で紘太選手との双子対決。大東文化大学では、後に旭化成でチームメートとなる市田孝選手が1区で、双子の弟・市田宏選手が2区と双子リレー。注目を集めました。

大東文化大学の市田孝選手が終盤にスパートして、少し差が空いて謙太選手、紘太選手が追う展開。「これくらいの差ならまだ大丈夫と思っていました。気になったのは紘太の方ですね。あとから聞いたら紘太には『謙太が仕掛けたらいけ、他の選手が仕掛けてもいくな』という指示が出ていたみたいです」

その後、謙太選手と紘太選手が一緒に追いかけます。3人の激しい競り合いを謙太選手が制して、区間賞。同タイムながら紘太選手が、胸の差で区間2位となりました。「一歩でも前にと思っていました。中継地点に入るところで紘太のペースが一瞬落ちたんです。勝ったと思ったんじゃないですかね。そこを差し返しました」。お互いに手の内を知り尽くしているからこそ、双子の壮絶なデットヒートでした。全日本大学駅伝で駒澤大は4連覇を飾り、村山選手にとって4年間、全日本では負けなしという結果となりました。

最後の全日本は1区で双子の弟・紘太選手(中央)とのデッドヒートを制しました(撮影・朝日新聞社)

最後の箱根では、またも2区に登場。後に東京オリンピックのマラソン代表となる東洋大・服部勇馬選手(現・トヨタ自動車)とつばぜり合いを繰り広げました。「いろんな駅伝がある中で、一番悔しかったのは最後の箱根です。3年目は痙攣があったけど全力を出しきれました。4年目は守りに入ってしまったんです。ゴールできるためのペース配分でいってしましました。服部くんは多分ですが、自分に勝つということで、攻めの姿勢があったと思います」。区間4位で箱根ラストイヤーを終えました。

「村山謙太という選手を作ってくれた大八木監督に感謝です。村山謙太という選手を知っていただけた4年間だったかなと思います」と駒澤大学での4years.を終え、大学卒業後、名門・旭化成に進みました。

「村山謙太という選手を作ってもらった」と話す駒澤大学での4年間でした(写真提供・本人)

名門・旭化成でさらなる挑戦

「自分と紘太は、大学は別々でしたが、実業団では一緒になろうと話をしていました」。現在は再び別々のチームで競技を続けていますが、双子での切磋琢磨(せっさたくま)は、社会人になっても続いています。

2015年には、10000mで世界陸上日本代表に。「レベルが全然違いました。雰囲気もそうですが、同じ400mトラックなのに1周500mくらいあるんじゃないかと思うくらい。本当に自分が小さく感じるようなそんな舞台でしたね。世界の有名な選手がそろう中、一緒に走って、圧倒されました。何回も世界の舞台を経験しないと、克服できないと思いました。代表になるだけでなく、ちゃんと力を出し切れるように、崩れるのではなく、しっかり出し切れるようにというのが大切だと感じました」

一方の駅伝は、元日のニューイヤー駅伝で4連覇に貢献。5区を走って区間賞も3回獲得しました。「5区はすごくキツいコースです。上っていて向かい風ですし、大事な区間です。4区までは追い風なので、そこまでは大きな差がつかないので、5区は重要です」と大事な区間を担ってきました。

旭化成に入社後、ニューイヤー駅伝で連覇に貢献。写真は今年の九州実業団駅伝(写真提供・旭化成陸上部)

マラソンにも挑戦しました。期待された初マラソンは、2016年の東京マラソン。外国人選手の集団にただ一人挑み、中間点を1時間02分53秒で通過。後半ペースダウンして2時間16分58秒となりました。「初マラソンでは、『自分はいける』という気持ちでレースに臨みました。質の高い練習ができ、周りのスタッフからも歴代の選手の中で1、2を争うようなトレーニングができたと言われていました。結果、足のマメが破れてキツくなってしまいました」

その後もマラソンに挑戦。2019年のベルリンマラソンでは「5分台や6分台を出してやる」と勝負の気持ちで挑みました。「30kmの通過が1時間29分ちょうどくらいで、2時間6分前後でいけそうだったのですが、うまくいきすぎて怖くなってしまいました」。自己ベストとなる2時間08分56秒で走りきったものの、村山選手はさらに高みを目指しています。

「今年30歳になります。今が一番、マラソンに対して充実してきている1年です。今後、飛躍していくために勝負していく年齢にしたいです。マラソンでどのように勝負していくかですね」。大迫傑選手、服部勇馬選手、中村匠吾選手(富士通)ら近い世代で活躍する選手を特に意識しています。

「自分はMGCにも出場できずに、2015年の世界陸上から7年間、世界の舞台で戦えず本当に辛かったです。最終的には村山謙太だったよねと言われるような年にしたいです。駒大OBの活躍も刺激になっていますが、非常に悔しいです。西山(雄介、トヨタ自動車)、二岡(康平、中電工)、大塚(祥平、九電工)と後輩たちが結果を残しています。学生時代と違う形に変わり、自分がマラソンで悔しい思いをしてきました。やっぱり村山さんだよねと言われるような成績を残したいですね」

10月の東京レガシーハーフでは日本人トップの走り。107番が村山選手(写真提供・旭化成陸上部)

東京レガシーハーフで外国人選手の集団に挑み、ラストで先着して日本人トップでフィニッシュ。マラソンで飛躍し、輝くために、低酸素トレーニングを本格的に取り入れるなど、取り組みも変えています。「(次戦の)福岡国際マラソンが楽しみです。結果で見せたいです。やっぱり最終的には村山謙太だったと、記憶にも残る選手になりたいです。30歳からあと競技を何年続けられるかわかりませんが、2025年の東京世界陸上が自分の競技の集大成のつもりで、臨んでいく3年間にしたいです」

競技以外では明るく、ニコニコと笑顔がまぶしい好青年も「まだまだこのままでは終われない」「自分の実力はこんなものではない」と内に秘める闘志はメラメラと燃えています。現状を打破し、記憶に残る選手を目指して村山謙太選手は挑み続けます。

イベントでの一コマ。普段はよく笑う好青年ですが、競技になるとスイッチが入ります

M高史の陸上まるかじり

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