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連載:4years.のつづき

“好きなもの探し”で思いはバスケと日本へ 川崎ブレイブサンダース勝久ジェフリー3

勝久さんは「人のためになることがしたい」「バスケットボールが大好き」という軸をもって、就職先を考えた(写真提供:川崎ブレイブサンダース)

連載「4years.のつづき」から、2019-20シーズン、男子プロバスケットボールのBリーグ「川崎ブレイブサンダース」のアシスタントコーチ(AC)を務めた勝久ジェフリーさん(38)です。5回の連載の3回目は、米国・サンタクララ大学卒業後に始まった社会人生活についてです。

好奇心を育んだ大学時代があったから 川崎ブレイブサンダース勝久ジェフリー2

進路に悩んだとき、頭に浮かんだのは3人のコーチだった

「好きなことを見つけなさい」という両親のアドバイスのもと、勝久さんは大学では興味の赴くままに様々な学びを得ていた。友人たちが就職に向けた準備を始めている中でもそのスタンスは変わらず、4年生になっても卒業後の進路は一向に定まらなかった。勝久さんが各国の文化に興味を持っていることを知っていた父からは、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)への就職をすすめられたが、具体的なアクションを起こすまでには至らなかった。

「人のためになることがしたい」、そして「バスケットボールが大好き」。勝久さんは“好きなもの探し”の過程で、この2点が自分をかたどる絶対的な軸であることを理解していた。しかし、これが何の職業につながるかがまったく思いつかなかったという。

いよいよ卒業までわずかとなったタイミングで、勝久さんはふと、3人のコーチのことを思い出していた。インターナショナルスクール時代のバスケ部のコーチ。ハイスクール時代のクロスカントリーのコーチ。そして大学時代の合唱団のコーチ。彼らは様々な場面で勝久さんと向き合い、勝久さんの人生に様々な教えを授けてくれた。バスケ部のコーチは誰に対してもフェアであること。クロスカントリーのコーチは、リスペクトの精神とベストを尽くすことの大切さ。合唱団のコーチは、チームが一つになることの喜びと情熱……。

そうして、勝久さんの根幹にある2つの点は、初めて線でつながった。「大好きなバスケットを通じて、人生に役立つメンタリティを教えられたら、こんなに幸せなことはないじゃないか。バスケットボールのコーチになろう」。ハイスクール時代のバスケ部のコーチに、コーチのあてがないかと相談したところ、日本では中学生にあたる付属校の7年生チーム(12~13歳)がACを探していることを聞きつけた。

二足のわらじ生活、そして芽生えた日本への思い

大学を卒業すると、勝久さんは実家のあるシアトルに戻り、日中は障害のある小学生の学習補助、夜間と土日は母校の付属校のボランティアコーチという生活をスタートさせた。学校は15時ごろに終わり、チーム練習は18時もしくは19時にスタートする。空き時間は思う存分、コーチングの勉強に費やすことができた。

「自分が大好きなバスケットを通じて、未来ある子どもたちを手助けできることがうれしかったですし、バスケットの技術や戦術そのものを教えられることが単純に楽しかったですね。自分が将来何になりたいのかと考えていた大学時代を経て、まずこのカテゴリーからコーチキャリアをスタートできたことは、僕にとってすごく大きかったと思います」

しかし、この二足のわらじ生活は3年で終わることになる。勝久さんが再び“好きなもの探し”の旅に出ることを決めたからだ。行き先は父の故郷であり、自身が9歳から16歳まで過ごした日本。「アメリカに引っ越してからも、日本が大好きでしたし、どこかで日本が恋しい気持ちがあった。だから、確かめたかったんです。なんで自分は日本が好きなのか。若くていろんなことがただ楽しい年ごろだったからなのか、それとも別の理由があったからなのか……」

大好きなバスケを仕事にできる喜び

チャンスがあればもう一度日本に戻って仕事がしたい。大学卒業から2年ほど経って芽生え始めた気持ちを、勝久さんは1年後、実行に移すことにした。

スポーツマーケティング会社に勤務していた当時は、バイリンガルの強みを生かして放映権に携わる領域を担当した(写真は本人提供)

「上司や雇い主の顔を見なければ仕事は決められない」と、インターナショナルスクール時代の友人宅に居候しながら就職活動をし、英会話講師を経てスポーツマーケティング会社に就職。そして、またバスケに携わりたいと思うようになったタイミングで、当時bjリーグに所属していたプロチーム・東京アパッチ(現・東京サンレーヴス)がマネージャー兼通訳を募集しているとの情報を聞きつけて応募。無事に採用された。「大好きなバスケットを仕事にできるなんて、こんなに素晴らしいことがあるだろうか。何が何でも成功してやる」。勝久さんは喜びに震えた。

その翌年には、チームが創設したばかりの千葉ジェッツから、同じくマネージャー兼通訳としてオファーを受けた。ゼネラルマネージャーと面談し、仕事内容や条件をすり合わせた後、勝久さんは意を決して言った。「私は実は、コーチを志望しています。ACにもトライさせてもらえないでしょうか」。勝久さんの申し出は受け入れられ、アシスタントコーチ兼マネージャー兼通訳としてクラブに加入した。

「面談の際、東京アパッチ時代にボブ・ヒルヘッドコーチ(複数のNBAチームでヘッドコーチを歴任)からたくさんのことを学んだと話しました。もしかしたらこれが、ジェッツが僕をコーチ候補としてくださった理由の一つかもしれません」。勝久さんはそう振り返る。

様々なことを経験できたから、いまがある

そうして、選手経験ゼロ、コーチ経験は中学ACを3年という、異色のキャリアのプロコーチが日本のトップリーグに誕生した。このとき、勝久さんは30歳。10代後半からコーチになるために勉強を続けてきた人や、トップ競技者としての経験を生かしてセカンドキャリアをスタートさせる人と比べれば、その歩みが遠回りであることは間違いない。

ただ、長きにわたる自分探しの旅を、勝久さんは一切後悔していない。むしろ、「そして、様々なことを経験しているからこそ、いまの仕事にいっそうのありがたみを感じます」と言い切る。

「状況や環境、関わる人……。様々なものが異なる場所で行動することで、自分がどのように変わり、逆にどう変わらないかがよく分かりました。時間をかけて、自分が何を大切にし、何が好きだと感じるかを理解できたことは、いまの僕にとってとても大きな経験の一つです」

日々全力、でも「人のために」が欠けていた 川崎ブレイブサンダース勝久ジェフリー4

4years.のつづき

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