駒澤大学の箱根連覇に貢献した糟谷悟さん 闘病、競技復帰、これからの挑戦!
今回の「M高史の駅伝まるかじり」は糟谷悟さん(37)のお話です。駒澤大学では箱根駅伝で2度の区間賞など4連覇に貢献。私、M高史の1学年先輩でもあります。実業団・トヨタ紡織で駅伝・マラソンに打ち込む最中、2013年に血液の癌・悪性リンパ腫が発覚。闘病から競技復帰、そして現在についてお話をうかがいました。
バスケ少年から陸上の道へ
愛知県出身の糟谷悟さん。元々はバスケ大好き少年で、中学に入ってからもバスケ部に入りますが「中学1年の体育祭1500mで速くて、駅伝に駆り出されてから、バスケ部と陸上部兼任になったんです。中学2年から陸上の大会にも出ていたら、気がついたら陸上部になっていました(笑)」。長距離の素質を買われ陸上の道に進むことになりました。
高校は中京大中京高校(愛知)へ。高校の2学年先輩にはのちに駒澤大学でも先輩となる内田直将さん(駒澤大〜トヨタ自動車)がいました。「カッコ良かったですね! 内田先輩のような全国区の選手になりたい! 憧れでした!」。憧れの先輩の背中を必死で追いかけました。
高校2年生になるとインターハイで5000m4位、国体で5000m8位、都道府県駅伝1区3位と、トラックでも駅伝でも全国の舞台で上位に。全国区の選手になるという有言実行の活躍でした!
一方、高校3年生のシーズンは「2年の時に頑張りすぎて慢性疲労でした」ということで、前年は入賞していたインターハイに駒を進めることができませんでした。
記録会では10000mで29分10秒05の好記録をマークしましたが、あまり納得いかないシーズンだったそうです。それでも「陸上の楽しさを知り、のめり込むきっかけになりましたね。自分が変わっていく自分の土台となる3年間となりました」と中京大中京高校での3年間を振り返られました。
駒澤大学で箱根連覇に貢献
「高校の先輩・内田さんが駒大ということもありましたし、駅伝でも結果を出したかったので」ということで駒澤大学へ進みました。「有名な先輩ばかりでガチガチに緊張していましたね。高校と大学で全然レベルが違いました」と最初はレベルの差に戸惑いました。
1年目、箱根駅伝に向けて大事な位置づけとなる11月の選抜合宿には選ばれませんでしたが「自分自身を信じ続けました。とりあえず準備を大切にしようと、徹底的にやりました。その結果16名のメンバーにもギリギリで入れました」
そこからさらに調子を上げていき、なんとギリギリ滑り込みで箱根メンバーの座を射止めました。「箱根前、最後の練習で同級生の藤山哲隆くん(現・住友電工陸上部コーチ)に先着して、ギリギリでメンバー入りしたんですよ」
初めての箱根駅伝は雪が舞い散る極寒のコンディション。「アップしても全然温まらなかったですね。走っていても体が動かなくて、終わってタイムを見たら『うわ、やらかした!』と思っていました。ただ、まわりもみんな寒くて動いてなかったですね」と区間2位の箱根デビュー。チームは9区で当時のキャプテン・島村清孝さんが逆転して首位に立ち、箱根連覇を達成しました。
「箱根で優勝することよりもメンバーに入ることの方が大変でした。島村さんの逆転劇はカッコ良かったです。自分もそういう先輩にならないと、と思いましたね!」
2年生の箱根は10区・アンカーを走りました。「余裕を持たせてくれる位置で来てくれて、チームメイトに感謝ですね。ゴールが近づけば近づくほど人が多くて左耳がキーンとなりました。ラスト1kmは苦しさを忘れるくらい気持ちが良くて、できることなら戻って何回も行ったり来たりしたいくらい最高でした(笑)」。糟谷さん自身も区間賞となる走りでチームの3連覇に貢献しました。
走れなかった同級生の手袋
3年生になると10000mで28分55秒88と高校時代のベストも更新。全日本大学駅伝のメンバーにも入り、チームも優勝を果たしました。
迎えた箱根駅伝は1年生以来の7区。先頭の東海大学と14秒差の2位でもらった襷(たすき)を先頭に押し上げ、独走体制に持ち込む区間賞の走り。「4年間で一番仕事ができました。追いつくのは当たり前。そこからどれだけ離せるかと思って走りました」。2位に1分06秒の差をつけて先頭で中継。その後は9区で塩川雄也さんの区間新記録の快走などもあり、駒澤大学は総合優勝、4連覇を達成しました!
ちなみにこの時、糟谷さんはピンクの手袋をしていたのですが、実は同級生・本宮隆良さんの手袋でした。前年8区を走った本宮さんですが、この年はメンバーから外れてしまいました。「走れなかった本宮くんの分まで走りました」。同級生の分の思いも込めての激走でした。
気負いすぎた大学4年目
大学4年生、最上級生となった糟谷さん。気負いすぎた1年になりました。「やらないといけないと思いながらも調子が上がらずバランスがうまく取れなかったです。蕁麻疹(じんましん)が出たり、キャパオーバーでしたね」
迎えた最後の箱根駅伝。4連覇を達成し、5連覇がかかっていた大会でした。レースは優勝候補だった大学が軒並みブレーキを起こす波乱の展開。亜細亜大学が9区山下拓郎さん(現・拓殖大学男子駅伝監督)の快走で先頭に立ち、糟谷さんは先頭と40秒の2位で襷を受けました。
「スタートするときに前と40秒差で『今年もいける』と思いました。10kmで10秒差まで詰まったのですが、体が寒いと感じました。そこからどんどん寒くなっていき意識が朦朧(もうろう)としてしまいました」。一時は総合優勝も見えかけていましたが、後半は順位を落とし総合5位でのフィニッシュ。糟谷さん自身も区間17位という悔しい結果となりました。
「連覇をしていて、それだけの人の努力、応援、サポートしてくれた人がいる中、最上級生なのに結果を残せなくて悔しかったですね。みんな頑張ってきたのに潰してしまった申し訳なさを感じましたし、人ってそんな気持ちになるんだと思いました。4年間で良いことも悪いことも経験して、今の自分がいます。目を背けずにやってきたことが今につながっています。ミスしたことは絶対忘れてはいけない、逃げたくなるシーンもありましたが、過去から目を逸らさずに一歩踏み出すための糧になりましたね」
恩師・大八木弘明監督のご指導のもと、熱く、濃く、そしてその後の人生の糧となる4年間を過ごされました。
トヨタ紡織でマラソン、駅伝に挑戦
大学卒業後は実業団・トヨタ紡織へ。「高校時代から最終的にはマラソンで結果を残したい、日の丸をつけたいという思いを持っていました」とマラソンにも挑戦します。
2011年びわ湖毎日マラソンでは2時間11分17秒で8位に。「30kmまで先頭集団でしたが、残り12kmで失速。悔しさの方が強かったですね。先頭で争っていたメンバーがみんな世界陸上の代表になったんですよ。自分だけなっていない悔しさがありました」と自己新の嬉しさよりも悔しさを感じるマラソンとなりました。
また、ニューイヤー駅伝では2010年から2013年まで4年連続で出場。特に2013年はアンカー7区を務め、チームも7位となり入賞に貢献しました。
血液の癌・悪性リンパ腫に
元旦から好スタートをきった2013年の6月頃のことです。練習していて体調がおかしいと感じる日々が続きました。
「普段の生活では気がつかないレベルでしたが、練習をしていて感覚がおかしいと感じていました。インターバルは1本目から走れない、ジョグもキツい。風邪をひいている状態で走っているようなおかしな感覚でした。だんだん、これは大きな病気じゃないかと感じていました」。コンディションなど普段から体と対話しているからこそ早めに気づいたのでしょう。
病院で最初に調べても原因がわからず。別の病院で調べたところ「血液の癌」と呼ばれる「悪性リンパ腫」と診断されました。この時、糟谷さんは30歳。
「悪性リンパ腫と言われて最初はピンとこなかったですが、医者から『命に関わる病気です』と伝えられて……一瞬では理解できなかったですね。家族に伝えた時のことは今でも鮮明に覚えています。電話越しに母親の悲鳴が聞こえました。たまたま少し前に、いとこが癌で亡くなっていたこともあって、リアルにイメージができてしまったのかもしれないですね」
また、チーム関係者にも心配をかけましたが、「みんなに心配かけたくなくてちょっとふざけた服を着たり、明るく元気に振る舞っていました」と病室でもなるべく明るく対応していました。
「ただ、夜1人になった時、すごく怖かったですね。『死ぬってなんだ?』って……」
それでも希望を持ち続けた糟谷さん。「小さい時から何かやるときは目標を立てていました。病気になった時にどうやったら自分が元気になれるか考えたんです。何が一番良い目標か考えた時に、まずは生きること。その先に競技に戻ることを目標にしましたね」
見えた希望の光
病室では、糟谷さんが目標にされていた世界陸上がテレビで放送されていました。
何気なく見ていた時、ジャマイカのノブレーン・ウィリアムズ・ミルズ選手が癌を乗り越えて競技にカムバック、世界陸上の舞台に戻ってきたことを知りました。テレビに食い入るように見ていました。
「前例があることに勇気をもらいました。病気から世界最高レベルのステージに帰ってきた人がいる。その努力をした人がいる。それまで真っ暗な部屋の中で、出口を探している状況でしたが、めちゃめちゃ遠くにぽわっと光が見えて、こっちに進んでいけばいいんだと希望が見えたんです!」
1年間の治療、闘病生活が終わり、無事に退院することができました。
戻ってきた居場所
退院してすぐニューイヤー駅伝でチームのサポートに。「(居場所は)ここだよね」と感じたそうです。「病室じゃなくて、駅伝の現場は眩しかったですね。現場に行くことでより競技復帰へのイメージができました」。その後、競技復帰に向けての日々。
「体重も10kg増えていたので、週に1kgずつのペースで減量して少しずつ戻していきました。ジョグやペース走は比較的早くできるようになったのですが、スピード練習がなかなか戻らなかったです。抗癌剤の影響で心臓への負担かかると医者からも言われていましたが、ダメージが残っていましたね」
めげそうなこともありましたが、どんなに心が折れそうになっても絶対に復活すると心に誓っていた糟谷さん。「病気の時にずっと家族やチームメイトに心配かけていたので、試合で結果を残したかったんです。あとは大学4年の箱根のミスが大きかったですね。自分の心が折れない状況、苦しい時、現状打破と思える経験でした」
諦めず、粘り強く走り続けてきた糟谷さんは2016年のニューイヤー駅伝に戻ってきました。エース区間の4区。「ここに戻ってきたから病気は関係ない」と挑みました!
レースも終盤、ラスト1kmにてご家族の応援に体が反応しました。「そこの地点にいるとは聞いていなかったですし、反対側の道にいたのに声に気がついたんです。やっぱり家族なんだと思いました。なぜか耳が瞬間的に反応しましたね。頑張って応援してくれている。向かい風で苦しかったですけどラスト踏ん張ることができました」。心配をかけていた家族に元気な姿を見せることができました。
「結果的には自分が納得いかない走りで、チャンスはものにできなかったのですが、走り終わってチーム関係者からの『待ってたよ』という言葉に涙が止まりませんでしたね。やっぱり自分の居場所はここなんだって感じました」
レースが終わってからは多くの方から手紙、メール、メッセージが届きました。「闘病している方から勇気もらったというコメントもいただきました。今度は自分がミルズ選手と同じ状況なのかなと思いました。病気のおかげで走る意味をプラスできましたね。僕は僕のために走っているけど、僕が頑張ることが人のためになる。人って全力で頑張った時に人にパワーを与えるんだって感じました」
選手兼マネージャーとして
現在は選手兼任マネージャー、競技者として裏方として多忙な日々を送る糟谷さん。「チームの後援会の皆さんに陸上を楽しんでもらえるような活動もしています。ホームページの更新、チラシを作ったり、チームのことをより知っていただけるような活動ですね」
競技を続けながら、積極的にチームの結果、魅力、近況などを発信されています。また、マラソン大会のゲストランナー、ランニングイベントでは積極的に市民ランナーの皆さんと交流しています。
「(市民ランナーの皆さんは)本当に走るのが好きって気持ちが伝わってくるんですよね。仕事が終わってから距離走を夜中にやる方のお話とかを聞いていると、どんな環境でもがんばらなきゃと力をもらえますね!」
市民ランナーの皆さんにも実業団や陸上競技に興味を持ってもらえるような架け橋になっていきたいという糟谷さん。栄光も挫折も味わった尊敬する先輩の挑戦、これからも応援していきたいです!