陸上・駅伝

連載:M高史の陸上まるかじり

筑波大OBの三津家貴也さん 陸上界を盛り上げるタレントへ転身!

筑波大学OBの三津家貴也さん。この9月からタレントして新たなスタートを切りました(写真提供:小野口健太さん)

今回の「M高史の陸上まるかじり」は三津家貴也さん(26)のお話です。筑波大学では1500mで関東インカレ出場。筑波大学大学院では800m、1500mで日本インカレに出場。社会人になってから800mで日本選手権にも出場しました。この9月からタレントとして新たな挑戦をスタートしました。

文武両道だった高校時代

熊本県出身の三津家貴也さん。中学時代は野球部でしたが「家が好きで、朝もギリギリまで家にいて朝急いで走って学校に行って、帰りも学校から急いで走って帰っていたところ足が速くなりました(笑)」とまさかの通学ランで走力が磨かれました!

本格的に陸上を始めたのは玉名高校に入学してから。最初に走った800mで2分07秒で走れて「意外と向いている」と感じたそうです。その後、1年生で2分00秒台。2年生になると1分55秒台に記録も伸ばしていきました。

3年生になるとインターハイに出場。予選から自己ベストを2秒近く更新する走りで、準決勝も通過して、決勝進出。6位入賞を果たしました。「走るたびに更新していました」というタイムも1分52秒8まで短縮。「強豪校ではなくて、自分1人で練習することも多かったです」。自分自身で考えるのはその後の人生にもつながっていったといいます。

インターハイ800mで6位入賞を果たした玉名高校時代(以下、提供写真以外は全て本人提供)

また競技だけでなく勉強も両立。「無駄な時間を作らないようにメリハリをつけていましたね」と文武両道の高校時代を過ごしました。

もどかしかった大学4年間

国立の大学で体育を学びたい、という思いから筑波大学に進学します。「大学で1人暮らしを始めて、洗濯や家事などの大変さを知りました。親に感謝だと思いましたね。自炊も最初は楽しかったのですが、最初の数ヶ月だけでした(笑)」。それでも「自分のことは自分でやるというのは苦ではないですね」と高校時代に培った自主性は生活面でも活かされました。

ただ、競技の面では「大学4年間で1度も800mのベストが出せなくて苦しみました。高校での成功体験を大学で実践しようと思いましたが、うまくいかなかったですね」ともどかしい日々が続きました。

800mで高校時代の記録を上回れず、1500mに挑戦したところ関東インカレの標準記録を突破。迎えた関東インカレでは「有名な選手ばかりで、応援もすごくて、完全にのまれてしまいうまく走れませんでしたね。気持ちで負けていました」。予選で組最下位と力を発揮することができませんでした。

関東インカレ出場も予選で組最下位。前を走るのは田母神一喜選手(現:阿見AC)

ターニングポイントとなったのは4年生の関東インカレ後、部活を引退して、卒業論文のため研究に取り組んでいた時のことでした。「自分の体を実験台にして、どういう練習をすると反応が良くなるのか自分で色々試してみたんです。エビデンスをベースにした練習をやってみて、意外と体力も落ちないし、いけるんじゃないかと思いました」

体力が落ちないどころか、新たな手応えを感じた三津家さん。「面白い、楽しいと感じました。これまでやっていた練習は何だったんだろうと(笑)。大学院でもう1回陸上を頑張ってみようと思いました」

大学院でも競技と研究を続けることに。鍋倉賢治教授にもお世話になりました

大学院の研究で競技成績も向上

学部卒業後は、筑波大学大学院へ。大学院では「中長距離の代謝、VO2max、ランニングエコノミーなど、どうやってパフォーマンスアップにつなげていくかを研究していました」と競技に直結する研究を積み重ねていきました。

「楽しく練習できていました。追い込みすぎず、継続性を大事にしていました。いま思うと大学の頃は毎回追い込んでいましたね。練習も分類するようにしていました。例えば『ジョグで負荷をかける』『インターバルで負荷をかける』など、やってることが違うと目的も変わります。練習の目的をはっきりさせるようにしていました」

大学院時代、英語で発表をすることもありました

研究も競技結果につながり、大学院では800mと1500mで日本インカレにも出場。「陸上の感覚が変わりました。インカレも楽しかったですね!ワクワクしすぎて先頭に出てしまってギリギリ決勝に行けなかったですが(笑)」。雰囲気にのまれた大学時代の関東インカレとは違い、大舞台を楽しむことができるほど、精神面での変化もありました。

ワクワクして先頭に出てしまったという日本インカレ

社会人で初の日本選手権出場

大学院修了後は、RUNNING SCIENCE LABに勤務しながら競技を継続。「VO2max やランニングエコノミーを測定する機械があり、それを用いてトップアスリートから市民ランナーの方まで測定して、どうやって競技力を伸ばしていくか提案をするお仕事でした」。まさに大学院で研究を活かしてきたことが活かせる環境でした。

「学会発表や論文を書いても、読んでくれるのは研究者の人です。研究する人たちが知っていて、ランニングを実践する人たちが知らないのはもったいないと思いました。科学的アプローチが絶対ではないですが、僕自身がアプローチを切り替えたことでうまくいったので、もし今やっている方法でうまくいかないのだったら、まずは試してほしいですね」

大学院の経験も活かし、RUNNING SCIENCE LABに勤務しながら競技も続けました

三津家さん自身も実践し、800mで日本選手権初出場を決めました。「高校で陸上を始めて10年目にして、夢に見ていた舞台に立てました。大学4年間からしたら考えられなかったですね。ただ、自分の力はしっかり出せたのですが、もっといけるという悔しい気持ちにもなれました」とさらに高みを目指していました。

社会人になって、念願の日本選手権初出場を決めました

突然の体調不良

競技も仕事も夢中で取り組んでいた今年4月末、突然の体調不良に見舞われました。「仕事中に倒れてしまいました。心が無気力状態で病院へ行きました」。実は2月頃から咳が止まらず、医師からはストレス性の過労状態による咳喘息と自律神経失調症と診断されました。

「仕事自体も楽しすぎて、色々やりすぎていたら、気づかずないうちに負担となっていたようで、心と体がもちませんでした。思えば仕事をしながら、競技の他にYouTubeなどの活動もしていて、スケジュールもパンパンでやりたいことがたくさんでした。常にアクセル全開といった感じで日中が活発的すぎて、交感神経が優位な状態。夜もなかなか眠れなかったんです」。職場の仲間の理解もあり、RUNNING SCIENCE LABを退職することになりました。

倒れてから1カ月半は体調が優れずほぼ家にいる毎日。不安と心配しかなかったそうですが、そんな中、できることから始めました。「TikTokは家の中でずっとできるので、ライブ配信をしたり動画配信したりしていましたね。TikTokで承認してもらえること、応援してもらえることが生きていく活力になりました」。社会復帰できたきっかけとふりかえります。

心配したり、支えてくれた仲間に感謝という三津家さん。たむじょーさんは真っ先に声をかけてくれたとか

自分の現状を包み隠さず、発信できるようになったのは6月に入ってからでした。「周りの方に恵まれて反響もいただきました。SNSでコメントやメッセージもたくさんいただきましたね」。心配してくれたYouTuberたむじょーさんに誘われて動画撮影で走ったり、「健ちゃん練」というランニングコミュニティに誘われて週1回走ったり「仲間の存在はとても大きかったです」と感謝の気持ちを口にしました。

タレントとして挑む新たな道

心身の充電期間を経て、9月1日からタレント活動を始めることに。「ランニングを通して知り合った方に支えてもらったので、今度は自分がランニングの魅力をもっと伝えていきたいです」。お世話になった皆さんに恩返しをしていきたい、と晴れやかな笑顔で話されました。

三津家さんが掲げるランニングの4つの楽しさ「自己ベスト更新など自分を超える競技性の楽しさ」「物事を考えて突き詰めていく研究的側面の楽しさ」「人と繋がれる楽しさ」「かっこいいシューズ、ウエアで走る魅せる楽しさ」を伝え続けるために現状打破しています!

「野球やサッカーのように、その競技を知らなくても楽しんでいただけるようになっていくといいですね。エンタメ性を取り入れたり、賞金制、出場選手のPVをカッコよく作ったり、魅せる大会作りなど試合運営なども将来的にはやってみたいです」。競技者からだけではなく、一般の方から見てもかっこいいなと思ってもらえる陸上界、ランニング界の実現に向けて走り続けます。

ランニングの魅力、楽しさを発信していくため、三津家さんのタレント活動はスタートしたばかりです!(写真提供:Kyonntraさん)

自己紹介で「いちにち、ふつか、みつか(三津家)」と爽やかに挨拶される三津家さんのその言葉にはきっと1日1日を大切に、そして後悔なく楽しくチャレンジしていこうという思いが込められていることでしょう!

新たな1歩を踏み出す三津家貴也さんに注目です!

M高史の陸上まるかじり

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