東京大会で念願のメダル獲得! 堀越信司選手が見据える、5大会連続パラ日本代表
今回の「M高史の陸上まるかじり」は東京パラリンピック男子マラソン(T12)で銅メダルを獲得された堀越信司選手(ほりこし・ただし、33)のお話です。目白大学からNTT西日本陸上競技部で競技を続け、北京、ロンドン、リオデジャネイロ、東京とパラリンピックで4大会連続日本代表。東京大会で念願のメダル獲得となりました。
中学で寮生活、陸上生活もスタート
長野県出身の堀越選手。生まれてすぐ目の手術をされたそうです。「出生時より遺伝で目の網膜にガンができる病気でした。右目に関しては手遅れでガンが転移しないうちに摘出しまして、左目は発見が早くてギリギリ弱視で視力を温存することができました」。幼少期は見えている状態が分からないまま、自分が障がいがあるという認識があまりなかったと言います。
小学校に入ると「周りと違うなと少しずつ分かってきました」という堀越選手。小学校では地域のスイミングスクールに通っていました。
中学は筑波大附属盲学校(現・筑波大附属視覚特別支援学校)へ。「視覚障がいを持っている児童に合わせた勉強ができるため」ということで中学生ながら親元を離れて寮生活となりました。
中学から陸上部に。「最初はモーリス・グリーン選手に憧れて短距離をやりたかったのですが、恩師・原田清生(すがお)先生に長距離を勧められました」。走るたびにどんどん速くなっていくのが魅力と堀越さんは言います。
高等部に進んでからも陸上を続け、記録も伸びていきました。「今の日本パラ陸上選手権に高校から出始めて、記録も伸びていきました。当時のT13の日本記録を更新できたのは嬉(うれ)しかったですね。先生にほめてもらったことあまりなかったのですが、その時は相当喜んでくださいました」と記録も伸び、恩師にも恵まれた中学、高校時代を過ごされました。
夢から目標へ! 北京大会で初のパラ代表に
高校卒業後は目白大学へ。「目白大学には当時、陸上部がなくて自分で作って活動をしていました。途中で埼玉の方のキャンパスに陸上部ができたと聞き、そちらに通ったりもしていました」
余談ですが、目白大学と言えば芸人でカンボジアマラソン代表・猫ひろしさんの母校でもあります。陸上部がなかったところから始まった目白大学からマラソンでオリンピック選手もパラリンピック選手も誕生するとは、驚きですね!(猫ひろしさんがマラソンを本格的に始めたのは芸人さんになられてからですが)
さて、大学1年生で迎えた2007年12月の東海大記録会が堀越選手にとってきっかけのレースとなりました。「1500mで大幅に自己ベストを更新し、北京パラの標準に近いタイムを出せたんです」。2008年3月までに標準記録を切れば代表入りできるということもあり、初めてパラリンピックを意識して今まで以上に練習をするようになりました。
「それまでは夢としてパラリンピックに出られたらいいなという思いは持っていました。高校1つ上の先輩が水泳でパラに出場していたので憧れもありました。標準が見えてきて、夢じゃなくて目標として頑張ろうと思えるようになりました」。その後、北京パラの標準記録を突破。パラリンピック代表入りを決めました。
北京パラには1500mと5000mで出場しました。今までT13のクラスだと思っていた堀越選手ですが、大会前のチェックをしたところT12クラスとなりました。
以下、クラス分けのおおよその目安。詳しくは日本ブラインドマラソン協会WEBサイトを参照ください。
T11 全盲、1人で走行できない、ガイドランナーは必須、公平性を保つためアイマスクを着用
T12 弱視、1人で走ってもいい、必要に応じてガイドランナーをつけてもいい
T13 弱視の軽いクラス、ガイドランナーをつけてはいけない
それまで堀越選手は正式なクラス分けのチェックを受けたことがありませんでした。「自分の場合はなんとかギリギリ1人で走れるますが、希望すればガイドランナーもつけることができます」。クラス分けやカテゴリーについても思うことがあります。
「いろんな障がいによってできることできないこと変わってくるので、同じ土俵で戦えるか考慮して、障がいを持っているアスリートが自分のできる範囲で最大限パフォーマンスを発揮できるようにするにはどうすればいいかという仕組みがクラス分けだと思います。障がいがあって、どうしてもあれができないこれができないといった点に目がいきがちですが、工夫すればできることはたくさんあります。むしろ、自分が障がいを持って生きている中でもできることをどんどん見つけて、工夫さえすればできることがあるというイメージを発信していきたいですね!」
初のパラリンピックの舞台は「緊張しすぎて食事もあまり食べられなかったですね。地球の自転を感じるくらいフラフラしました(笑)。スタジアムの大歓声に圧倒されて、自分の走りをさせてもらえなかったです。2種目とも予選落ちでした」。まさに地に足がつかないという状況を身を持って体験されました。
それでも「あの経験があったので、今は普通に大きな舞台で、多少緊張があっても動じずに競技に打ち込めますね! 負けて悔しかったですが、世界と戦う思いがもっと強くなりました」とさらに強くなるための跳躍台となりました。
また、大学3年生の夏から卒業までは、関東にある大学の陸上同好会の長距離有志で作った「韋駄天ドリームズ」というチームの練習にも参加し、仲間とともに切磋琢磨(せっさたくま)をしてきました。「自分よりも速い仲間と一緒に練習させてもらうことで大学3年、4年の成長につながりましたね」。今でも親交があり、応援してくれる大切な仲間です。
パラのメダルを目指して
目白大学卒業後は実業団・NTT西日本で競技を継続。「当時はオリンピック代表の大崎悟史さんがいらっしゃったり、箱根駅伝を走った選手たちのような『ホンモノ』と一緒に走ることで、今までの自分じゃいけない、よりしっかり練習、しっかり自分と向き合うようにと強く思いましたね」
2012年のロンドンパラリンピックでは5000mで自己ベスト14分48秒89をマークし、5位に入賞します。
「この4年間で世界のレベルが一気に上がりました。優勝したアミン・シェントゥフ選手(モロッコ)は13分52秒です! 4位より上の選手が当時の世界記録を更新していたので、勝負したという感じがしませんでした。メダル争いに絡めず、改めてパラのメダル獲得への思いが強くなりました」
さらに次回のリオデジャネイロではマラソンで狙うきっかけにもなりました。「5000mで14分10秒~20秒の力がないとトラックのメダルは厳しいほど一気にレベルが上がってきました。ただ、自分はチームの練習の時にスピード練習は厳しくても距離走は一緒にできていたので長い距離に適正があるのかなと感じていました」。自己分析の通りマラソンで力を発揮。ブラインドマラソン世界選手権で3位に入り、リオ代表を決めました。
世界選手権で3位に入ったということもあり、堀越選手自らの思い、そして周囲の方の期待も高まっていきました。
「あまりにメダルという思いが先行しすぎて、逆にメダル獲(と)れなかったどうしよう、結果が出せなかったらどうしようと重圧も感じていました」疲労が抜けていないのも現地で感じていたそうです。
リオでは日本の岡村正広選手が3位、堀越選手が4位に。「岡村さんは今でも尊敬していますし、日本チームとしてもメダルを獲ってくれたのは嬉しかったです。とは言え、やはり自分もメダルを獲りたかったですね」。その岡村選手とは選手村で同じ部屋だったそうです。
「おめでとうございますと伝えましたし、嬉しかったです。でもやっぱり悔しかったですね。選手村のベランダの端っこで悔しくて1人で泣いていました。もうそういう思いはしたくないと感じ、自国開催の東京にかけていきました」。悔しさをバネに3度目ならぬ4度目の正直にかけて東京への挑戦が始まりました。
東京大会で念願のメダル獲得
2018年から陸上部に籍を置きながらも個人で活動する形になりました。「チームと一緒にやっていた方がサポート体制もありますが、(駅伝など)目標レースや流れが違うこともあります。自分の信念を貫きたいと思い、覚悟を持って 人生を懸けていました」。4度目のパラ代表が決まり、2020年開催のつもりで準備していた堀越選手。
「2020年の夏はかなり調子も良くて、もしパラがあったとしてもメダルを獲れたんじゃないかというくらい仕上がっていました」。2021年に入ってからも好調を維持。練習のタイムトライアルでハーフマラソンのベストを大幅に上回るなど、調子を上げてきた矢先に故障。4月、5月と走れない日々が続きました。
「6月に入ってから走れるようになってきて、7月しっかり走り込み、8月は調整でした。正直、不安は少しありましたが、7月中旬を過ぎてから一気に調子が戻ってきましたし、調整段階でスピードも戻ってきました。決して、順調にトレーニングを積めてきたわけではなかったですが、ケガしてしまっている状況をなんとか現状打破しないと!と思い、できることをやってなんとか東京のスタートラインに立つことができました」
コース特性、夏マラソンということもあり「絶対に揺さぶりに反応しない」と決めていた堀越選手。
「決めたペースでいき、最後の上り坂を粘ればメダルが獲れると強化のコーチとも話をしていました。ただ、思ったよりも集団が大きかったですね。東京パラでは、視覚障がいの選手の他にも、腕の障がいの選手も同じレースを走っていたんです。弱視ということもあって、どの選手がどのクラスか分からなかったんですよ(笑)。一体この集団には何人いるんだろうと思っていましたが、自分の走りを貫きました。貫き通して結果的にメダルを獲れなかったら仕方ないと覚悟を決めました」
堀越選手は途中7~8位あたりに位置していましたが、35kmで6位に。さらに終盤ペースを上げて3位まで浮上。終盤の上り坂を上り切ってからも必死でピッチを上げます。「競技場に入ってから3位と場内アナウンスされました。トラック入ってから500mほど走るのですが、第1コーナーで日本チームのスタッフが叫んでいるのが聞こえるんです。興奮していて『堀越ー!』しか聞こえなくて、めちゃめちゃ詰められているかもと思って必死でスパートしましたね(笑)。3位だと思って気持ちよく走ったのは最後の100mくらいでした(笑)」。3位でフィニッシュし、パラ4大会目にして念願のメダル獲得となりました。
「2013年に東京オリパラの開催が決まってから、8年間いろいろなことがありました。うまく走れないことや悔しい思いつらい経験もありましたが、やめずにずっと走ってこられたのは東京でメダルを獲得したいという思いと、支えてくださって応援してくださった皆さんのおかげで感謝しています。過去の自分に少し報いることができたかもと思いましたし、銅メダルは約400gくらいなのですが、物理的な重さ以上の重みを感じましたね!」
4度目のパラで念願のメダル獲得となった堀越選手ですが「メダル争いをしっかりできたのかという複雑な心境ですし、マラソンをやっている以上、もっともっと速く走りたいです。2時間20分を切ったらどういう世界なのかも確かめてみたいですね!」
今年4月のかすみがうらマラソン兼国際ブラインドマラソンでは2時間21分21秒の自己ベスト・アジア新記録をマーク。2024年のパリパラリンピックに向けて、堀越信司選手のさらなる挑戦は続きます!