日本選手権で1500m2度優勝の戸田雅稀さん、芝浦工業大学でプレイングコーチに!
今回の「M高史の陸上まるかじり」は戸田雅稀さんのお話です。群馬・東京農業大学第二高校時代には1500mでインターハイ優勝。東京農業大学では関東インカレ2部1500mで連覇を達成し、箱根駅伝にも出場しました。社会人では1500mで2度の日本選手権制覇を果たし、今年3月で現役を引退。4月からは芝浦工業大学駅伝部コーチとして、また自身の活動として群馬ユナイテッドACで走り続けています。
心身が鍛えられたクロカンと強風
1993年生まれ、群馬県出身の戸田雅稀さん。小学校の頃は野球をやっていましたが「野球は好きだったのですが、やるより見る方が好きでした(笑)。個人競技の方がいいなということで中学で陸上を始めました」。
最初は短距離で100mをしていたそうですが、1500mに出場したところ県大会に出ることができ、そこから長距離に。中学時代は800mと1500mで全国大会に出場し、800mで準決勝に進出にしました。「緊張よりも楽しくてワクワクしてました」と振り返ります。
高校は東農大二高へ。「中学は1人で練習することが多かったですが、仲間から刺激をもらった高校時代でした」
高校時代は、高崎市内の河川敷にあるクロスカントリーコースを走り込みました。ところどころに小さな起伏があり、雨が降っても翌日にはすぐに走れるほど水はけのよい、ふかふかの芝生コースです。「脚が鍛えられました。ペース走などスタミナ作りがメインで持久力がつきました。スピード練習をあまりやらずに1500mのタイムが伸びていきました。冬場は特に風が強くて、練習後に片道10km自転車で帰っていたのですが、帰りは全部向かい風で(笑)。精神的にもだいぶ鍛えられたかなと思います」。クロカンと群馬の名物・からっ風に心身ともに鍛えられました。
2年生の全国高校駅伝では3区で区間3位(日本人トップ)の成績。「実績はなかったですが自信を持って挑めました。走る前はめちゃめちゃ緊張するのですが、襷(たすき)をもらってからは落ち着きますね」
3年生のインターハイでは「1500m を1人で走っても好記録が出るように練習していました。インターハイ前はランキングトップで、マークされるプレッシャーもありましたが、うまく当日に合わせられました」。プレッシャーをはねのけ、見事に優勝を飾りました。
高校3年間について「厳しいながらも顧問の先生にいいところを伸ばしていただけました。先輩、同期、後輩との関わり、高校のつながりには今も感謝しています」と振り返ります。
東京農業大学では箱根駅伝に2度出走
高校卒業後は東京農業大学へ。「寮生活ということで上京して親元を離れて、半分楽しみもありつつ、いざ住んでみたら寂しさもありつつでした。高校まで1500mと5000mだったのが、10000mや20kmに対応ということで、大学1年目は長い距離に慣れるのに苦労しましたね。箱根駅伝を目標にしていたので、練習は結構やっていたと思います」
1年生の箱根駅伝は4区に出場。「暴風の中、最下位でもらって、どうしていいかわからず断トツ最下位でした。それがあって2年目以降につなげることができました」。ほろ苦い箱根デビューでしたが、悔しさをバネに2年目へと向かっていきました。2度目の箱根は3区を走りました。
高校時代にインターハイを制した1500mでも活躍を見せます。関東インカレ2部で連覇を達成。当時からロングスパートが印象的でした。「ラストが自分にないのがわかっていたので、ラストである程度詰められることも計算しながら、逆算して逃げ切ろうと思っていました。高校3年の時から、自分で作って勝つというレーススタイルでやってきました」
大学ではアジア選手権の日本代表にも選出。「5月の関東インカレが終わって6月の全日本大学駅伝選考会の合間のレースで、スピード練習が入っていなかったのですが、いけるところまで行こうと思っていました。レースでは2周目から先頭を走った記憶があります。(結果は8位に)上には上がいるなと感じましたね」
大学3年、4年はチームとして箱根に届かず。「できれば4年目で出て(母校に)いい流れを作りたかったですね。大学4年間は当時の(前田直樹)監督が僕の意見をくみ取ってくださいましたし、自分で考えてやるということを得られた4年間でした」
1500mと5000m、連戦の準備法
大学卒業後は強豪・日清食品グループへ。「当時の日清食品はスター選手がそろっていて、大学とは違った環境でした」。入社1年目の日本選手権では1500mで優勝。5000mでも5位入賞を果たしました。
「あまり調子も良くなかったのですが、どこまでいけるかと思っていました。いい勝負ができるかわからなかったですが、終わってみたら勝てたという試合でしたね。1500mは1周目がスローペースで、後ろから観察しつつ、自分で一気にいけるところからペースを上げました。ロングスパートで上げたら落とさない、落ちたら負けだと思っていました」と3分46秒66で日本一に輝きました。
ただ、「あまり実感がなかったです。5000mも翌日に控えていましたので」と浮かれることはなかったそうです。
1500mと5000mに連日出場ということで「練習は5000mに向けてやっていました。1500mは1週間前に調整で入れたくらいです。ただ、4月の段階で3分40秒切って走っていたので、ある程度(400m)60秒を切ったスピードでも押していけるなと思っていました」と連戦の準備についても教えていただきました。
2017年のニューイヤー駅伝では1区で区間賞を獲得。「1区はよーいどんですし、トラックレースと変わらないイメージでした。スローになることが多いですし、僕が有利な展開に持っていけると思っていました。なるべく目立たないところでレースを進めるのが1区を走るポイントでした。前の方にいると細かな上げ下げがあるので、後ろで力を使わないようにして、10km手前くらいで、ある程度前にいたいなと。スパートに反応できるように誰が出ても反応できるようにというのを意識していましたね」。1500mのスピードを生かして区間賞を獲得されました。
サンベルクス移籍後、再びつかんだ日本一
2019年に日清食品グループ陸上部の規模縮小にともない、サンベルクスに移籍した戸田さん。当時は脚の故障もあり、治りかけて走り出した頃でした。「走りの感覚は良かったのですが、いつまで続けられるかわからないですし、悔いの残らないように1500mで勝負したいという気持ちでした。(サンベルクスは)その思いを受け入れてくれるチームでした」
日本選手権から約1カ月前の日体大長距離競技会では3分41秒51。「後半独走で3分41秒で走れたので、リハーサルにしては上出来でした」。ライバル選手たちも好記録を出す中、戸田さんの調子も上向いていきました。
迎えた日本選手権1500m。「まだまだできるということを結果で見せたいと思っていましたし、やってきたことが形になった試合でした。1回目の優勝よりもうれしかったですね。(400m)60秒ペースでもある程度余裕が持てていましたし、スローに感じていました。残り2周(800m)を1分52秒から53秒でいけるかなというトレーニングができていたので、ちゅうちょせずに前に出ました。(後半は)前に出られたら負けだと思って走りましたね」。ラスト2周からのロングスパートで集団が一気に絞られ、ラスト300mでさらに加速して後続を振りきり、3分39秒44で2017年以来となる自身2度目の優勝を飾りました。
「ロングスパートは練習から『これならいける』という状態で自信を持ってできるようにしています。例えば練習でも800m3本を1500mのレースペースよりも少し速いペースで、レスト10分という練習を入れていました。試合前は調整で最初の200mをゆっくり入って、次の400mをレースペースよりも少し速いくらいに上げる変化走で、600m3本とかを入れて調整していました」と戸田さん。聞いているだけでキツそうな練習ですね(笑)。
「やりたいことがやれた競技人生」
その後、2021年にSGホールディングスに移籍。「調子が良くなくて、なかなか結果が出ない中、受け入れてもらえたので、結果を残さないとという気持ちでやってはいました。ただ、思うようにいかず焦りもありました。SGホールディングスに移籍したタイミングで入籍もしたので、家族を養うという責任がある中、その中で結果が出せず申し訳なかったです」と苦しい時期もありました。
そんな中でも「応援してくれる妻、両親のためにも、もう一度日本選手権で表彰台に立ちたいというモチベーションを持って、最後まで諦めずにやれたと思います」と挑み続けてきました。
そして今年3月で、いったん現役選手としてはひと区切り。「自分のやりたいことがやれた競技人生だったと思いますし、しっかりと自分が決めたことに関しては責任を持ってプライドを持って、自分の芯を大事にしてこれたと思います。陸上競技を通じてすごく僕自身が成長できたかなと思います。本当にやってきて良かったと思います」と振り返られました。
群馬ユナイテッドACを立ち上げ、地元に恩返し
4月に芝浦工業大学駅伝部でプレイングコーチに就任した戸田さん。ポイント練習では選手を引っ張ってアシストしています。
「プレイングコーチは自分のためではなく、人のためにやっているので、そこで僕が引っ張って、選手がきついながらでも走ってくれると、やりがいを感じますし、良かったなと思います」。チームとしては大学創立100周年(2027年)までの箱根駅伝本戦出場を目標に掲げ、「今年も十分にチャンスはあると思うので、それまでにしっかり力をつけて、僕も貢献したいと思っています」。
また、地元の群馬に恩返しする活動として、群馬ユナイテッドACを立ち上げました。群馬中心の市民ランナーで構成していて、群馬県の陸上界を盛り上げようという普及活動から始めています。「将来的に群馬の方々に認知されて大きくなっていけたらと思っています。いずれは地元に戻りたいという気持ちがあるので、今のうちから貢献したいという気持ちで取り組んでいます」
第一線からは退きましたが、日本選手権を2度制した戸田さんはコーチとして、また競技者とは違った新しい形で地元への恩返しをする日々を送っています。