陸上・駅伝

連載:4years.のつづき

特集:パリオリンピック・パラリンピック

積水化学・山本有真(上)「普通の大学生になりたい」と告げてから、戻ってくるまで

パリオリンピック陸上女子5000m代表の山本有真(撮影・井上翔太)

今回の連載「4years.のつづき」は、パリオリンピック陸上女子5000m代表の山本有真選手です。前後編連載の前編では陸上競技を始めたきっかけから、名城大学2年のときに一度競技を離れたいきさつなどについてです(以下、敬称略)。

バスケから始まり、高校で「真剣にやる陸上」に

愛知県出身の山本が、正式に陸上競技を始めたのは中学校から。それまではバスケットボールに2年間打ち込んだ。「スラムダンクが好きで『手は添えるだけ』とか、自分もそのイメージでバスケをしていたら、すごく楽しかったんです。近くにバスケコートもあって、負けず嫌いだったのでよく自主練もしてましたね」。一方で陸上競技の長距離でも地元のマラソン大会で1位を取るなど、得意だった。

バスケ部がそこまで強くなかったという理由から、中学では「めっちゃ強かった」という陸上部に入った。「やるからには結果を残したいなと」。ただ、当時の最高成績は「市内大会で3位とか」。愛知県大会に出場したことはないものの、本人としてはこれで満足している部分もあった。「ドヤッてましたね(笑)。先生には『県大会に行くぞ』みたいなノリがあったんですけど、周りから『すごい』と言われていたので、それだけで大満足してました」

2023年はブダペストで開催された世界陸上にも出場(撮影・内田光)

親に負担をかけたくなかったため、高校はスポーツ推薦で進めるところを探し、光ケ丘女子へ。「中学までは鬼ごっことか、エンドレスリレーとか、遊びの延長に陸上競技があった感じですけど、高校からは『真剣にやる陸上』に変わっていきました」。動き作りや「アップをしてからポイント練習をする」ことなど、本格的に取り組む上での基本的な考え方を学び始めたと振り返る。

おかげでタイムもぐんぐん伸びた。自身初の全国大会は2年のときの全国高校総体(インターハイ)。女子800mに出場したが、予選落ちで「全然かなわなかったです」と悔しい思いもした。駅伝では2、3年時に全国高校駅伝で2区に出走し、大舞台での経験を着実に積んだ。

努力の量とは反比例する形で成長

ストイックに競技を続けてきた印象もあるが、本人の中ではやや感覚が異なる。「中学校の方が断然努力してました。『とりあえず腹筋を100回、スクワットを100回やろう』とか。ただ学年が上がるにつれて、色んなことを学べたので、今は無駄を減らして、必要なことだけに絞れています。正しいトレーニングを最小限に抑えてますね」。努力の量とは反比例する形で、成長してきた。

大学女子駅伝の強豪・名城大学から誘われたことは当初「おまけ」だと感じていた。「同じチームにインターハイで入賞するような子がいたんです。その子を誘うついでに私もと思っていました。誘われたことがありがたすぎて『日本一の大学に誘われたなら、行くしかなくない?』みたいな雰囲気でした」

「4年間で1回でも駅伝を走れたらいいな」という気持ちで入部したという。初めて親元を離れての寮生活。最初は新鮮で「これが日本一の大学か」とすべてを受け入れていたが、徐々に「時間に縛られている生活が窮屈で苦しいな」と思い始めてきた。同期の仲間とは「卒業するまで、あと千何百何十何日」と数えることもあった。

一方、競技面では1年目から全日本大学女子駅伝と富士山女子駅伝に出走。全日本では4区区間賞、富士山では4区の区間新記録を打ち立てた。「想像以上でしたね。おそらく自分が頑張ったからじゃなくて、速い選手たちの中に置かれて、ついていったら自分の記録が伸びて、いつの間にか駅伝メンバーに選ばれていました」。苦しんで勝ち取ったというよりは、「あ、なっちゃった」という感覚が大きかった。「4年間で1回でも駅伝」という目標を1年目にクリアしてしまい、次にめざすものが分からなくなった。

3年目の全日本大学女子駅伝では1区区間賞を獲得(撮影・加藤秀彬)

コロナ禍とけがに苦しみ続けた大学2年目

山本は大学2年目を振り返るとき「ずっと電気を消して、真っ暗な状態が思い浮かぶ」と口にした。新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、授業はオンライン。大学の友人と会う機会がなくなり、寮からも出られなかった。練習は「各自でジョグ」のような形で行われ、自身は両足の足底筋膜炎を発症した。「朝起きて、立ち上がるだけでも痛くて、着地するのが怖かったです。ずっと芝生の上を走ってました。日本インカレ(1500m)以外は、記録会1本しか出てない気がします」

それでも駅伝には出た。全日本は2区でチームをトップに押し上げ、富士山では4区で前年と同じ区間記録をマーク。いずれも優勝に大きく貢献した。「やりきった」という思いが強かったことに加え、当時の生活リズムに限界が来ていたこともあり、2年の終わりに一度、部を離れる決断をした。

「私は駅伝部の子たちがいないキャンパスに通っていて、一般の学生と仲良くしていました。その子たちとの授業が終わって『遊ぼう、今度一緒に旅行に行こう』となっても、私だけ部活で行けないということもしんどくて。成人式のときにも間近で『普通の大学生』の生活を見ちゃって、米田(勝朗)先生に『普通の大学生になりたいから辞めたいです』と言いました」

米田監督からは「こういう環境は当たり前じゃない」という趣旨のことを告げられたが、山本本人には響かなかったという。すぐに荷物をまとめて実家へ。ちょうど授業がない時期。多くの友だちと出かけるなど、文字通り「普通の大学生の春休み」を過ごした。

積水化学1年目の2023年、セイコーゴールデングランプリに出走(撮影・柴田悠貴)

チームに戻った直後は5分間ジョグもきつかった

山本が部を離れている時期、同期とはビデオ通話で近況を伝え合うこともあった。「元気?」「最近こうだよ」と何げない会話をしていただけだったが、3月の日本学生女子ハーフマラソンで同期の小林成美(現・三井住友海上)が優勝を果たし、荒井優奈(現・積水化学)が3位に。FISUワールドユニバーシティゲームズへの出場権をつかんだ。同期の代表内定に刺激を受けるとともに、合宿のたびに米田監督やコーチから「ここから合流しないか」と連絡を受けた。「毎回、無理ですと言ってたんですけど、自分は走ること以外何もできないですし、最後の合宿前に言われたとき『行きます』と答えました」

チームに戻ると、米田監督と2人だけで話をする機会があった。そのとき初めて「やるからには日本代表になろう」と言われた。ただ、2カ月もの間、まったく走っていなかった山本はこのとき、5分間のジョグだけでもきつかった。Bチームの練習についていくこともできず、追いつくために、出されたメニュー以上のことを自らに課していた。「陸上にかける時間が多くなった」

名城大では4年間、全日本と富士山で勝ち続けた(撮影・加藤秀彬)
積水化学・山本有真(下)競技だけでなく、おしゃれもメイクも 時代に沿った選手像

4years.のつづき

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