鹿屋体育大OB永田宏一郎さん 伊勢路で〝伝説の区間記録〟樹立、箱根駅伝で給水も?
今回の「M高史の陸上まるかじり」は永田宏一郎さんのお話です。鹿屋体育大学時代に10000mで27分台を出し、2000年の第32回全日本大学駅伝は1区で衝撃的な区間新記録を打ち立てました。国際千葉駅伝では海外勢に競り勝ち、1区(10km)を27分40秒で走破。一転、実業団では故障に悩まされました。その後は教員の道に進み、鹿児島商業高校で保健体育を教えながら陸上部の監督をされています。
「スピードがないと距離を伸ばしても通用しない」
鹿児島県出身の永田さんは小学校で水泳とソフトボール、中学ではソフトテニスをしていました。「小学校の頃から、持久走は校内で1~2番でした。高校に入るとテニスが硬式になるんです。テニスをするか陸上をするか迷ったのですが、やったことないことをしてみようと陸上を始めました」
錦江湾(きんこうわん)高校では800mと1500mの中距離がメインに。高校2年までいらっしゃった先生から、「スピードがないと距離を伸ばしても通用しない」と言われていたそうです。「高校は野球部とサッカー部、ラグビー部がグラウンドを使っていて、自分たちは200mくらいとれるところを行ったり来たり、ショートインターバルをしていました。また、ロング走ではお金を持って走っていき、のどが渇いたら自動販売機で飲み物を買って給水をする2時間走などもやっていましたね」
3年時は別の先生が顧問になられましたが、あまり現場に顔を出せなかったそうで、永田さんは自分で練習メニューを考えるようになりました。「前任の先生が基礎を作ってくださって、その後は自分でアレンジして強くなっていきました。自分の体調に合わせてトレーニングを組み立てていました」。この年、1500mでは南九州大会を突破しインターハイに出場。決勝を目指しましたが、惜しくも予選敗退となりました。
高校時代のベストは1500mが3分55秒。5000mは公式としては15分10秒でしたが、真夏の九州選手権で走った記録だったため、実際には14分台の力があったそうです。
3大駅伝は関東勢を抑えて1年目から区間賞
全国の舞台を経験したものの、全国的には無名だった永田さん。高校卒業後は地元・鹿児島の鹿屋体育大学に進みました。
大学入学後、一気に才能が開花しました。日本ジュニア選手権(現・U20日本選手権)では1500mと5000mでともに入賞。5000mでは1年目に14分16秒まで記録を伸ばしました。
「環境の変化ですね。高校時代は一人で走っていたので、集団で走るのが楽しかったのだと思います。あとは坂をよく上っていました。大学の周辺で坂トレをしていました」
大学1年時の出雲駅伝では、1区で関東の強豪校を抑えて区間賞を獲得。永田さんの快走で一躍、鹿屋体育大学の名前が知れ渡りました。「鹿屋ってみんな読めなかったんですよ(笑)。『かや』とか『しかや』とか言われてましたが、それで認知されました。調子は良かったですし、ポジティブにレースに臨んでいました」
2年時の出雲駅伝も1区で区間賞を獲得。当時・日本大学のエースだった山本佑樹さんに競り勝ちました。3年連続1区区間賞を目指した翌年は、第一工業大学(現・第一工科大学)のモロッコからの留学生・アジスドリウッジ選手に敗れて区間2位に。その後の全日本大学駅伝では1区で区間賞に輝き、勝負強さを発揮されました。
大学ラストシーズンは、さらに進化を遂げられました。日本インカレ5000mで2連覇を達成。10月には日本選手権10000mで日本人2位に入ると、中1日で出雲駅伝6区に臨み、区間新記録での区間賞を獲得されました。
翌11月の全日本大学駅伝1区は、今でも語り継がれている衝撃的な区間新記録で、ぶっちぎりの区間賞。現在は距離が変更になっており、〝伝説の区間記録〟となっています。「最初から記録しか考えていなかったです」と永田さん。当時のテレビ中継によると、起伏があるコースを10km28分ちょうどぐらいで通過していたようです。
ジョグで強くなり、ポイント練習でチェック
永田さんは主将としてメニューも作っていました。「距離走などチームメートと一緒にできるところはやって、スピード練習は目指す大会が別なので、個人でやっていました。練習では自分の感覚を大切にしていました。ポイント練習をやる日だけは決めていたのですが、ウォーミングアップで寮からグラウンドまで移動している最中に『ちょっとスピード足りないな。じゃ、ショートインターバルやるか』といった具合に、行く途中で決めていました」。体の声を聞きながら、メニューを決めていたそうです。
「僕の考えとしては『ジョグで強くなって、ポイント練習はチェック』みたいな感じでした。たとえば1000mを5本走るとして、それまでにジョグでどれだけ体を作っていけたのか。それを確認する感じでした。あとは起伏をよく走っていました。ポイント練習で強くなるのではなくて、ジョグで強くなっていました。ポイント練習は、おなかいっぱいにせずに『どれだけ余裕を持ってやるか』」。これによって故障せず、練習を継続することにつながっていったそうです。
また、起伏の走り方についても「下りはブレーキをかけない接地をする。後ろの足を早く前に持ってくるイメージです。足首を傾斜に合わせた角度で走ることで、ランニングエコノミーを身につけていました。上りは心肺機能を鍛えるイメージでした。自分で追い込むのは苦じゃないので、ひたすら上りで追い込んでいましたね」と意識して鍛えられていたそうです。
全日本大学駅伝の後、同じく11月に行われた国際千葉駅伝では、日本代表チームの1区を任され、10kmの区間を27分40秒で走破。海外勢を抑えて区間賞を獲得しました。当時のトラックの日本記録に迫るような激走でしたが「実はその日はあまり状態は良くなく、走ってしまったらアドレナリンが出て走れました」。少々調子が合わなくても、力を発揮されていました。
さらに12月には10000mで27分53秒19の自己記録をマークし、当時の世界選手権参加標準Aを突破しました。
大学卒業を前にした京都シティハーフマラソンでは1時間01分09秒で優勝を飾ったものの、「3日前に右アキレス腱(けん)が痛くなり、走った後はダウンジョグもできないほどの痛みでした」と振り返ります。異次元の走りを続けてきた永田さんでしたが、実業団に入ってからは、けがとの戦いが待っていました。
走りのバランスが崩れてしまった実業団時代
大学卒業後は旭化成に入社しました。「今度は反対の左アキレス腱も痛めました。人間はバランスをとるので、どちらも故障しました」
旭化成の退社後は、自身で競技を続ける期間を経て、小森コーポレーションに入部しました。エドモントン世界陸上代表(故障により欠場)や世界クロスカントリー選手権に2度出場するなど、日本代表にも選ばれていましたが、当時はけがだけでなく、走りのバランスにも悩まされました。
「社会人1年目から左足がぬける症状が出ていまして、引っかかって左足が出ないんです。バランスがおかしい走りになってしまいました。リズムも変わって、左足はつくだけ。そこから右足一本で走るようになりました。それでも10000mで28分ちょうどとかで走れていたので、治さずに走っていたら、だんだん右足の疲れが蓄積していって、パフォーマンスが落ちていきました」。病院へ行っても原因はわからなかったそうです。
寄り添う指導をしながら、今も走り続ける!
2012年に小森コーポレーションを退部し、地元・鹿児島に戻って教員の道へ進みました。2013年から鶴翔(かくしょう)高校で非常勤、翌年から正規雇用となりました。現在は鹿児島商業高校に赴任され、7年目になります。
「父の影響で、もともと小学校の先生になりたかったんです。昼休みに子どもたちとドッジボールをするのが夢だったのですが、まだかなえていないです(笑)。大学進学の時には、純粋に体育を教えたいと思って、体育の先生になりたいと思いました。部活では結果を求めすぎるのではなくて、その子たちの目標や希望に沿った指導を心がけています」
生徒さんたちに寄り添った指導のおかげで、鹿児島商業高校の皆さんは陸上が好きで、高校卒業後も続けてくれる選手が多いそうです。「高校で燃え尽きないような指導を心がけています。長く続けてほしいですね。将来の目標や夢に合わせて進路指導もしています。そこでは今までの経験や人とのつながりが役に立っています」
実際、鹿児島商業高校の練習に参加させていただきましたが、学校内や学校周辺の周回コースは起伏が激しく、特に階段は、登山やトレイルランのような急斜面です。選手の皆さんは勢いよく、1段飛ばしで駆け上がって行きました。鹿屋体育大学時代に起伏で足作りをしてきた永田さんならではのコースです。
教え子としては年始の第101回箱根駅伝で、中央学院大学の長友英吾選手(1年)が16人のエントリーメンバー入り。出走とはなりませんでしたが、今後の活躍に期待です。ちなみに長友選手が箱根を走る際は、永田さんが給水員を務めると約束されているそうで、鹿屋体育大学時代は縁がなかった箱根路を永田さんが走る日も遠くないかもしれません。
永田さんは教員になってからも、走り続けています。「鹿児島県は県下一周駅伝があるので、求められるのであれば走らないとな、と思っています。周りの期待もありますし、人のためですね。昔は自分のためにやっていましたけど、今は人のため、生徒のため。そういう生き方もいいのかなと思っています」
現在46歳ですが、レースに合わせれば、今でも5000m14分台中盤では走れるそうです。実際に取材させていただいても、体が仕上がっていることがわかります。もしも現役時代の永田さんが、今の高機能シューズやスパイクを履いていたら、一体どんな記録が出ていたのだろう……。一人の陸上ファンとしては、妄想してしまいます(笑)。
「高校生は競技レベルの差があって、指導が難しい時もあります。その中でもチームで目標を共有することで、達成感を味わうことができますし、自分も指導しながら成長できます。自分は現役時代、『1区でどれだけ稼げるか』と思って走っていましたし、実業団でも強い個が固まれば、駅伝で勝てるイメージでした。でも、高校駅伝をやってみると、そうじゃない。よく『襷(たすき)を持ったら見えない力が出る』と聞きます。本当に人のために、チームのためにと思うと、キツくても我慢ができるんですよね。力がなくても結果を出せたということは、高校駅伝ってこういうものなんだと勉強になりました」
現役時代は、栄光も挫折も経験された永田宏一郎さん。現在は指導者として、時には鹿児島県下一周駅伝の選手として、現状打破し続けています。