バスケ

連載:監督として生きる

61年ぶりのインカレ優勝の裏側、育成機関の絶対的使命を胸に 筑波大・吉田健司4完

2014年、筑波大はインカレで61年ぶり2度目の優勝を果たした(写真提供・佐藤雅美)

昨年12月のインカレ男子は筑波大が3年ぶり5度目の優勝を果たしました。そのチームを率いる吉田健司ヘッドコーチ(HC、61)は2004年に東芝を退社後、母校である筑波大学男子バスケットボール部の技術顧問に、06年にはHCに就任しました。連載「監督として生きる」ではそんな吉田さんの現役時代も含め、4回の連載で紹介します。最終回は筑波大で指導する現在についてです。

名将に海外に学び、「絶対」がないバスケと向き合う 筑波大・吉田健司3
破天荒な名将 東海大バスケ・陸川章HC(上)

2年目に2部降格、育成の大切さを知った

04年4月、吉田さんは45歳で母校の筑波大に戻ることとなる。理由はサラリーマンならではの事情。国内トップカテゴリーで腕をふるい、代表監督まで務めたコーチであっても、東芝が考える、実績不問の部活定年には抗えなかったのだ。「ここまでやってきたバスケを捨てられない」との思いで、方々に相談した結果、筑波大の教員になるチャンスがあることを知った吉田さんは同社を退職。筑波大の大学院生として学びながら、筑波大男子バスケ部のコーチを務める人生が始まった。

「筑波大はスポーツにおける国内トップ校。コーチングも内容もとにかくレベルに達しなければならない」。吉田さんはそんな意気込みを胸に、東芝バスケ部や日本代表で力を発揮した戦術をベースにチームを指導した。1年目は見事にハマった。吉田さんは学生たちの対応力に舌を巻き、翌年も同じスタイルを踏襲(とうしゅう)。しかし、チームは秋のリーグ戦で2部に降格した。

吉田さんは今、その原因をこのように分析する。

「当時は、毎年選手が入れ替わることの重要さに気づいていなかったんですね。つまり、今年の4年生ができたことを、翌年の4年生が同じようにできるかといったらそうではない、ということです。1年目はたまたまうまくいきましたが、下積みがない選手たちにトップレベルのバスケットを教えたところでうまくいくわけがないんです」

強化に集中できる実業団選手と違い、大学生は育成にも力を入れなければならない。そのことに気づいた吉田さんは、すぐさま方針転換を図った。戦術の確認に多くの時間を割いた練習を見直し、個人の基礎的なスキル向上にあてる時間を増やした。選手たちの指揮官への信頼や、戦術理解のばらつきにも着目。「私の緻密(ちみつ)なバスケをやろうとする者もいれば、とにかく勢いでやろうとする者もいる。だから勝負どころでミスが起きて、勝てる試合を落とすということがよくありました。彼らのプライドを踏まえたコントロールができなかった、私のミスでした」と振り返り、ミーティングなどで自身の考えを伝える回数も増やした。

こうして立て直したチームは、3年後の09年に1部復帰。チームカルチャーの土台が固まったことで、吉田さんが当初追い求めていた高度で緻密な戦術も、少しずつ取り入れられるようになっていった。

馬場雄大と杉浦佑成が入学、常に優勝を狙うチームへ

14年、筑波大には超逸材が入学した。馬場雄大(現・テキサス・レジェンズ)と杉浦佑成(現・島根スサノオマジック)。U16時代から日本バスケ界を背負って立つ存在と嘱望(しょくぼう)されていた2人が、そろって入学を希望したときの吉田さんの喜びは想像に難くない。

馬場は富山第一高時代から世代別の日本代表として活躍していた(写真提供・佐藤雅美)

彼らが入学したことで、吉田さんの日本一への思いは、これまでに増して高まった。筑波大が最後にインカレで優勝したのは、東京教育大時代までさかのぼる1953年。「馬場、杉浦が最上級生になった年に、64年越しのインカレ制覇を」との青写真をいかに実現しようかと考えていたときに、慶應義塾大HCを務めた佐々木三男さん(現・國學院大HC)から言われた言葉を思い出した。

「佐々木先生は、200cm超の身長とスキルを持った逸材・竹内公輔(現・宇都宮ブレックス)が入学した04年に、彼をすぐにスタメンに使って慶應を45年ぶりのインカレ優勝に導きました。『最初から4年後を見ていたってダメ。毎年毎年本気で日本一を狙って、初めて4年後が見えるんじゃないの?』と言われて、確かにそうだなと。そこから私はもちろん、選手たちのマインドをも変えて、常に優勝を狙うチームを作らなければと思いました」

それまで吉田さんは、トーナメント戦においても、目の前の1試合ごとに戦略を立てるスタイルをとっていた。しかしこの年は、最大のライバルと見られた東海大だけにフォーカスし、「決勝で東海大と戦い、勝つためにはどうすべきか」という命題を徹底的に突き詰めた。インカレに向けた練習初日、選手たちにその構想を披露すると、大きな目標を与えられた彼らは俄然(がぜん)燃えた。見事に決勝まで勝ち上がり、思惑どおり東海大と相まみえると、主将の笹山貴哉(現・名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)や馬場の活躍を軸に、67-57で勝利。筑波大にとって61年ぶり2度目の優勝は、吉田さんが筑波大の指導に携わって10年目のことだった。

「まずはうれしかったですね。そして、優勝っていきなりくるもんなんだなと思いました」。吉田さんは当時を振り返り、いたずらっぽく笑った。

優勝を決め、吉田さん(左)はキャプテンの笹山と喜びをかみしめた(写真提供・佐藤雅美)

世界は大型オールラウンダー化している

吉田さんは現在、「学生たちを社会へと送り出す」という教員としての任務をまっとうする一方で、指導者としては「Bリーグや日本代表につながる選手を育てる」という目標を持っている。キーワードは「サイズアップ」「オールラウンド化」「戦術的な引き出しを増やすこと」。とくに身長190cmを超えるような選手に、小柄な選手と同等のスキルと運動能力を養わせる「サイズアップ」「オールラウンド化」の2つは、190cm超の選手を多く預かる吉田さんにとって、大きな使命と言える。

吉田さんが大型化を推進するきっかけとなったのは、10年にドイツで行われた第1回U17世界選手権だ。

「実際に現地に足を運んだんですが、そこで見た光景は本当に衝撃的でした。どの国の選手も大きくてオールラウンダーで、ゴール近辺のシュートは全部ダンク。レイアップにいこうものなら確実にブロックされるからです。世界最高峰レベルは、もはや身長180cm台の選手が戦う場所ではない……。正直、そう思わされました」

2017年の李相佰盃日韓学生大会に日本学生選抜として出場した、筑波大の選手(左から杉浦、馬場、玉木祥護=現・レバンガ北海道)と吉田さん。吉田さんは身長195cm超の彼らに、辛抱強くアウトサイドのプレーを指導した(写真は本人提供)

昨年、13年ぶりに出場したワールドカップで全敗。今はまだ遠い「世界」を目指す日本男子バスケ界にも、大型化の波は確実にやってきている。インサイドを外国籍選手や帰化選手たちが占め、高校や大学界にも留学生が増えた。プレーの幅が狭い日本人ビッグマンたちが徐々に行き場をなくしつつある現状を見ていると、大型選手のオールラウンド化は育成機関の絶対的使命とも感じる。そのように伝えると吉田さんはうなずき、続けた。

「クラブチーム方式のヨーロッパでは、12~3歳からコンバート(ポジションを変更)し、10代のうちにプロや代表にデビューする選手が珍しくありませんし、アメリカのトップ層も大学を中退してNBAに入ります。このように、20歳になる前に育成が完了している世界と比較して、大学生年代で育成をせざるを得ない日本は、遅れているというのが事実。高校年代で基礎的な技術の取得を完了させ、大学でもプロと同じように戦術面に特化できるようになるのが理想です」

日本の育成システムが変わるのを待ちながら、吉田さんはひたすら、大型オールラウンダー育成に力を注いでいる。「環境が許す限り、代表につながる選手を育てたいし、毎年少しずつアレンジしながら、いろんなバスケを経験させたい。その上で優勝ができれば最高ですね」

日本バスケの大きな未来を見つめながら、吉田さんは今日も学びを深め、コートで腕をふるっている。

監督として生きる

in Additionあわせて読みたい