バレー

連載: プロが語る4years.

特集:東京オリンピック・パラリンピック

母を見て始まったバレー、一生忘れない最後のインターハイ パナソニック・清水邦広1

清水(左)は東海大学時代に出場した北京オリンピックに続く2度目のオリンピックを目指している(写真提供・パナソニックパンサーズ)

今回の連載「プロが語る4years.」は、バレーボール男子日本代表としても活躍するオポジットの清水邦広(34)です。2009年に東海大学卒業後、Vリーグのパナソニックパンサーズでプレーしています。4回連載の初回はバレーとの出会い、「一生忘れない」と話す最後のインターハイについてです。

バレーが基準じゃない道を歩んで進学し、プロに、日本代表になった 福澤達哉1

引っ込み思案な子が初めて「やりたい」と言った

ニックネームである“ゴリ”のイメージに違わず、清水邦広の幼少期をイメージすれば、きっと多くの人が思い浮かべるのが“わんぱく”な“ガキ大将”。仲間の先頭に立って遊ぶ姿を想像するのはたやすいが、意外にも実際は真逆、と清水は言う。

「むちゃくちゃ田舎の小学校で、全校生徒も100人に満たない。1学年は1クラスで13人ぐらいしかいませんでした。それしかいないのに、僕は人見知りで引っ込み思案だったので、仲良くなるまでめちゃくちゃ時間がかかる。小さい頃は母親の後ろに隠れているような子どもでした」

夏休みには他校の児童と合同で行うキャンプもあり、学校では知らせが配られたが母に渡せば申し込むのが目に見えている。絶対に行きたくないから、母親に渡す前に捨ててしまう。それほどまでに知らない人と話したり、一緒に何かをするのは嫌、という子どもだったが、唯一の例外がバレーボールだった。

3歳になる頃から母のママさんバレーの練習について行くのが当たり前で、そこでいつも会う友達と遊ぶのが楽しみだったが、知らぬ間に違う思いも芽生えた。「母親がチームのエーススパイカーだったので、『カッコいいな』と。お母さんみたいになりたいな、お母さんがやっているバレーボールを僕もやりたい、と思うようになりました」

エーススパイカーとして活躍する母の姿を見て、清水(左端)はバレーをしたいと思うようになった(写真は本人提供)

クラブ活動に参加できるのは小学校5年生から。でもどうしてもバレーが始めたくて、4年生になってすぐ、母に「今すぐバレーボールをやりたいんだけど」と直談判した。それまでずっと引っ込み思案で、学外キャンプのお便りすら捨ててしまう息子が、初めて「やりたい」と言い出した。貴重な機を母は逃さず、何より自発的に「やりたい」と意志を示したことがうれしくて、直接、校長先生にかけ合った結果、体が大きかったこともあり、特例として4年生からバレークラブへの参加が認められた。

全国覇者のエースの振る舞いに見とれてしまった

念願のバレーは楽しくて、勝負うんぬんよりボールを思いきり打てることが面白い。基本技術を教わるでもなく、見様見真似で続け、中学でも迷わずバレー部に入部すると、そこで初めて基礎をたたき込まれた。

「元々周りの人を見て“こうすればいいんだ”と思って真似していただけだから、スパイクを打つ時も僕は左利きなのに、右利きの人と同じ助走で入って、逆脚で踏み切って打っていました。当然中学に入ったら直されるけれど、クセはなかなか抜けない。ちょっとずつヤンチャになった時期でもあったので、まぁよく怒られました(笑)」

基本から丁寧に見直す厳しい指導で培ったのは、技術だけではない。今でこそ、点を取った後に見せるガッツポーズは清水の代名詞と言っても過言ではないが、当時は感情を露(あら)わにするのが恥ずかしくて、自分で点を取ってもほとんど喜ばなかった。

中学生のころの清水(右上)は、自分の感情を表現するのが恥ずかしかったという(写真は本人提供)

意識を変える出会いは、中学3年生の時だった。前年度、全国大会で優勝した山形県のチームと練習試合をする機会に恵まれた。優勝に貢献したエースが同学年で、同じ左利き。当然気になる相手であり、意識して見ていたが、全国制覇した前年度と比べると力は落ち、それほど「強い」という印象はない。むしろ印象に残ったのは、彼のプレーや振る舞いでチームを引っ張るという意志の強さだったと振り返る。

「練習試合なのに人一倍声を出して、勝たせよう、自分が引っ張ってやるんだという姿に、見とれてしまったんです。僕もあんな風にならないといけない、あいつよりうまくなりたい、あの左利きよりすごくなりたい、と思って。彼を超えるためには、ただ真似をしてもダメだし、すかしてないで点を取ったら喜ぶ、走り回る、感情を表に出さなきゃ、と思うようになりました」

「高校時代は全部福澤」

中学を卒業して、高校は地元の強豪・福井工大福井高校へ進学。全国大会出場ではなく全国制覇を目標とする高校で、更に厳しく追い込む毎日。誰よりも点を取り、誰より叫び、感情を露わにする。今につながるプレースタイルが生まれた高校時代、1人のライバルが現れた。インターハイ、国体、春高。高校生バレー選手が目指す全国大会のほぼ全てで、毎回毎回、またか、とあきれるほどに対戦する。それが洛南高校(京都)であり、洛南を牽引(けんいん)する同じ歳のエース、福澤達哉(現パナソニックパンサーズ)だった。

公式戦だけでなく、練習試合も飽きるほど重ね、互いを知り尽くす。大げさではなく「高校時代は全部福澤」と笑うように、全国制覇のために絶対勝たなければならない相手で、それなのにいつも全国大会では嫌というほど敗れる相手が洛南。中でも、清水が「一生忘れない」と振り返るのが、高校3年生で迎えた最後のインターハイだった。

8月11日、奇しくもその日は清水の18回目の誕生日。ベスト8からベスト4をかけて迎えた準々決勝の相手は洛南。互いに1セットずつを取り合い、フルセットの終盤、福井工大福井が先に20点を超え、21-19と洛南から2点のリードを得た。

「勝てる! と思っちゃったんです。だってあと4点取ればいいわけだし、相手より2点リードしている。よっしゃ、勝った、と僕だけじゃなく多分、チームみんながそう思った。そうしたら、そこから大逆転されて負けてしまった。嘘やろ、もう少しやらせてくれよ、という思いが強すぎて、立てなかったですね。僕、コートで大の字になって駄々こねました(笑)。だって、最高の誕生日プレゼントや、と思っていたら最悪の誕生日。忘れられないですよね」

福澤(左端)は今でこそチームメートだが、高校生の時からずっと競い合ってきたライバルだった(写真提供・パナソニックパンサーズ)

世代を代表する2人の戦いは、当時はまだまだ序章にすぎない。互いにとって「忘れない」と振り返る高校最後の試合から、今夏で17年が経つ。ともに切磋琢磨(せっさたくま)しながら現役を続ける未来を、あの時は誰が予想しただろうか。

洛南の初優勝で閉幕した04年のインターハイは、後に続くすさまじく色濃い日々の幕開けだった。

プロが語る4years.

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