サッカーと勉強だけの東大時代、忙しくても後悔したくなかった 久木田紳吾2
今回の連載「4years.のつづき」は、東大在学中に特別指定選手としてJ2のファジアーノ岡山でプレーし、東大初のJリーガーとなった久木田紳吾さん(31)です。昨シーズンをもってザスパクサツ群馬を退団。9年の現役生活にピリオドを打ち、今年4月よりSAPジャパンで新しいキャリアを築いています。4回連載の2回目は東大で過ごした日々についてです。
家にはテレビも置かず
3年生の時に学科を選ぶ進学選択制度を採用している東大では、1~2年生の内に様々な学問を学ぶこととなる。教養学部理科二類に進学した久木田さんは、理系の基礎科目の座学や研究、ときにはカエルの解剖などの実験も授業に組み込まれていた。
2年生の時はとくに必修科目が多く、朝9時半から授業が始まり、授業が終わればそのままグラウンドへ。17時半からの練習には遅れることもあったが、練習ができない時は一人でランニングをしたり、学内のジムで体を鍛えたりと、授業の空き時間をうまくやりくりしていた。「ほんと、勉強とサッカーだけの日々でしたよ。だから家にはテレビも置いていませんでした」。アルバイトに家庭教師を選んだのも、限られた時間の中でやっていくためだった。
3年生になってからは工学部都市工学科都市計画コースへ。実地研修やグループワークも多く、デザインの発表会の前などは丸2日徹夜となることもあった。サッカーに打ち込むために、もっと楽な学科を選ぶことも考えたが、真面目な性格がそれを許さなかった。
「苦労して東大に入ったんですから、興味が持てないことをやるのは後悔しそうだなって思ったんです。だからやるんだったらやっぱり自分が一番興味をもてることをしよう、と。当時は街のデザインや街づくりの計画を学ぶ都市工学に興味がありました。まだ建設中だった東京スカイツリーの地下で現場を見させてもらえたことは、素直に面白かったですよ」
とくに苦労したのがデザインの課題。デザインにはたった一つの正解があるわけでも、明確な終わりがあるわけでもない。またそのデザインによってどんな効果を得られるのかを説明するには、膨大なデータ処理が必要になる。慣れない内は時間もかかり、サッカーにも支障をきたすこともあった。ただ、同じ学科の友達は久木田さんがサッカーにかけていることを理解してくれ、グループワークなどでは協力してくれた。「これは僕が引き受けるから、そっちは任せた」と伝えては、なんとかサッカーの練習に間に合わせた。それでも練習後にまた戻り、夜通しでグループワークをする時もあったという。
プレー集DVDで自分をアピール、隙間に院試の勉強も
4年生になるにあたり、久木田さんは主将になったが、「僕自身も主将タイプではないんですよ。消去法で決まりました」と明かす。同期は就職活動を始める一方、久木田さんは揺らぐことなくプロへの道を模索した。
東大は関東大学サッカーリーグの一つ下にあたる東京都大学リーグに所属しており、都リーグにまでクラブチームのスカウトが足を運ぶことはない。自分をアピールするにはどうしたらいいか。クラブチームの代理人をしていた東大卒の方と知り合う機会に恵まれ、その人を通して自身のプレー集のDVDをクラブチームの担当者に見てもらう“就活”に取り組んだ。
いくつかのクラブからオファーがあり、7月にはJ2のファジアーノ岡山の練習に参加。プロになれなかったら東大大学院に進もうと考えていたため、その後に控えていた院試に備え、参考書とともに岡山に入った。
1週間の練習後、指導陣からは「もう1週間見てみたい」の声をかけてもらった。「これはひょっとしたらいけるんじゃないか」という気持ちも高まり、もう1週間、もてる力をすべて出し尽くした。そして岡山から加入内定とともに、特別指定選手としての受け入れも決まった。
東大初のJリーガー。入学式の時に心に決めた道なき道を、この時、久木田さんはしっかりと刻んだ。さらに早ければ年内にもJリーグデビューができるかもしれない。院試勉強を切り上げ、こみ上げてくる喜びをかみしめた。
悲願の関東大学リーグ昇格をかけたラストゲーム
大学最後の試合は都リーグ1部の最終節、相手は帝京大学だった。4点差以上で勝てば、東大の悲願である関東大学リーグに昇格できる。そんな大事な局面で久木田さんは勝ち越しゴールを決め、2-1。これからというところでホイッスルが鳴った。東大は帝京大に次ぐ4位で昇格を逃した。「自分が決めて勝った試合ではあったんですけど、昇格できなかったことがすごく悔しくて……」。大学4年間の中で、この試合は一番深く記憶されている。
10月末に引退後、特別指定選手として岡山でJリーグデビューを果たす。シーズンを終えた12月頭から卒論に本腰を入れた。年末年始は研究室に泊まり込み、地元・熊本には帰らなかった。テーマはJリーグのホームタウン活動について。「スポーツを通して地域を活性化するというのも都市工学の分野の一つ。もちろん学問としてもサッカーに興味がありましたし、すでにJリーグの関係者とも知り合いになっていたので、自然な流れで研究を始めました」。必死で論文を書き上げ、沖縄や鹿児島でのキャンプに合流。その隙間に卒論発表を終え、無事に東大を卒業。11年、正式に東大初のJリーガーとなった。
目指してきたプロの世界。その1年目からレベルの違いを思い知らされた。
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